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集団的自衛権考


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集団的自衛権容認について(1) 2014 年 6月28日
 「自衛」「自存」「生命線」「権益」「共栄圏」「新秩序」     
20世紀半ばまで、こうした言葉がこの国に氾濫していた。


日本が経営する鉄道線路が爆破された。(柳条湖1931)
日本人僧侶と信者が暴漢に襲われた。(上海1932)
日本の居留民保護等のため駐兵していた日本軍に対し発砲があった。(盧溝橋1938)
日本海軍将兵2名が共同疎開で中国保安隊に銃撃殺害された。(第二次上海1938)
このうち二つは関東軍、日本公使館駐在武官による謀略だったが、国民の熱狂のもと「居留民保護」の大義名分を掲げて結局 日本は兵力を投入し中国との泥沼の全面戦争にのめり込んでいった。

「戦力」は「自衛のための必要最小限の武力」にあたらないとするごまかし。
「歴史修正主義」を「正統史観」と言い張るごまかし。
「武器」を「防衛装備品」と言い換えるごまかし。
「9条」を「集団的自衛権行使を容認している」とするごまかし。
残念ながらこの国には国と世界の行く末を惑わす言葉がいまも溢れている。

憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認を進める側等から「国際法では個別的自衛権も集団的自衛権も国家固 有の権利として認められている」との主張がある。
しかしこれは正確ではない。国際法で初めて国家の自衛権に言及したのは国際連合憲章(1945)だが、それは「武力攻撃が発生し た」場合に、「国連の措置がとられるまでの間」のみに限定して容認されているにすぎない。
      http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/
国連憲章前文は「共同の利益の場合を除く外は武力を用いないこと」、憲章第2条4項 は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するもの も、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」
としており、「自衛のための武力行使」を明示的・無前提・無制限に認めてはいないのである。
合衆国第28代大統領ウィルソンは当時未曾有宇の犠牲者を出していた第一次大戦末期に「14か条」を議会に提出する。
      http://aboutusa.japan.usembassy.gov/pdfs/wwwf-majordocs-fourteenpoints.pdf
それは世界大戦の再来を予防するための具体的、一般的な提言であり、後者は1秘密条約の禁止、XIV国際的盟約の結成とともにWiv「国家の軍備を、国内 の安全を保障するに足る最低限の段階まで縮小すること」などであった。これは大きな惨害を経験した諸国の受け入れるところとなり、戦後国際連盟が結成され る。
      http://itl.irkb.jp/iltrans/zLeagueOfNations.html
国際連盟規約(1919)は「聯盟国は、平和維持のためにはその軍備を国の安全及び国際義務を共同動作を以ってする強制に支障なき最低限度まで縮小するの 必要あることを承認す。」と軍縮を掲げ、さらに第12条【国交断絶に至る虞のある紛争】で「仲 裁裁判官の採決若しくは司法裁判の判決後又は聯盟理事会の報告後三月を経過するまで、いかなる場合においても、戦争に訴えざることを約す。」 と、不 十分ながら一定期間の戦争行為の禁止を史上初めて唱い、従来の無制限な国家主権としての戦争論を転換し、個別国家ごとの軍事同盟や密約に代わる「集団安全保障」体制の構築をめざすこととした。
この第一次大戦後不十分ながらも成立した「集団安全保障」体制が瓦解するのは、常任理事国5カ国中の3カ国すなわち日本、ドイツ、イタリアが相次いで連盟 を脱退し、「日独伊三国同盟」結成へといたる道を歩み始めたためである。(つづく)






  集団的自衛権容認について(2)  2014年 6月30日
20世紀以降、多くの戦争は「自衛」のためと称して行われてきた。
国際連盟規約(1919)は前文で「戦争に訴えざるの義務」を掲げ、第10条【領土保全と政治的独立】で「侵略」を否定し、第11~15条により「紛争」 の司法的解決または連盟理事会による審査による解決を規定することにより戦争を抑止しようとした。
これを一歩進めて「締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄ス ル」(第1条)「一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解 決ヲ求メサルコトヲ約 ス」(第2条)と戦争自体を「違法化」したのが1928年の 「戰爭抛棄に關する條約」(バリ不戦条約)である。
    http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg98xl01.htm
これは第一次大戦前からあった反戦・平和運動と、主にアメリカにおけるサーモン・レヴィンソン、ジョン・デューイらのあらゆる戦争(「侵略」「自衛」「制 裁」を問わず)を非合法化しようとする「戦争非合法化」思想と運動を背景にもつとされる。ちなみに、この戦争非合法化思想は第二次大戦後の日本の憲法改正 に大きな影響を与えたとされる。9条に関するマッカーサー原案は「War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.」と「自己の安全を確保するのための手段としても、戦争を放棄」となっている。
    http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/147shoshi.html
しかし、このとき中南米を自らの「勢力圏」と見なすアメリカや広大な植民地を領有するイギリスなどが「自衛」の適応範囲、内容、限界をなんら規定しないま ま「自衛権」留保を行う。「侵略戦争」は否定されたが「自衛」のための戦争は許され、その権利を留保する、その対象は自国領土内に限定できないというので ある。これ以後、「自衛」「生活圏」「生命線」などを掲げ、「事変」「出兵」「武力行使」といった呼称のもとに日本の中国への、ドイツの東欧への、イタリ アのエチオピアへの侵略が始まる。
現在でも「大東亜戦争は自衛のための戦争だった」とする「正統史観」なるものが存在するが、たしかに定義の曖昧な「自衛権」によって第一次大戦後の集団安 全保障体制は瓦解したと言える。国際連盟規約も不戦条約も「自衛権」を明文規定していないにも関わらず、実 際の国際関係・政治においてそれは一人歩きしていくのである。(つづく)

    


集団的自衛権容認について(3)   2014年8月5日
第一次大戦後、国際連盟規約第八条の掲げる「軍備縮小」(「国の安全と、国際的な義務遂行のための共同行動実施とに支障がない最低限度まで、その軍備を縮 小する」)の理念のもとで、ワシントン会議(1921~2)、ジュネーブ軍縮会議(1932~4)、ロンドン海軍軍縮会議(1930)などが開催された。 国内に軍事産業が台頭するアメリカ、最大の植民地保有国イギリスが主導したワシントン、ロンドン会議では海軍主力艦および補助艦の保有量の一定の制限を合 意したが、国際連盟が主導した一般軍縮会議であるジュネーブ会議は、英仏とドイツの軍備を巡る対立、日本による満州事変(1931)、ヒトラーの権力掌握 (1933)と日独の国際連盟脱退という状況のもと、なんら成果を得ることなく終了する。
第一次大戦後の国際安全保障体制構築の努力(国際連盟)、軍縮の努力(ワシントン、ロンドン会議など)と戦争非合法化の 努力(パリ不戦条約など)にもかかわらず、1939年ナチスドイツのポーランド侵攻によって再びヨーロッパにおける戦争が始まる。しかし、当時戦争に関す る国 家間の敷居は第一次大戦時よりは高くなっていた。国際連盟や不戦条約の掲げる「集団安全保障」「軍縮」「不戦」の理念のもと、第一次大戦前にあった日英同 盟(Anglo-Japanese Alliance1911)や露仏同盟(Franco-Russian Alliance 1894)のような個別国家ごとの軍事同盟は大戦間期にはほとんど締結されることがなかったのである。
ちなみに第一次日英同盟(1902)は日露戦争前に締結されたが、交戦国が一国の場合は相互に「中立」を守ることとし、戦争の拡大を防ぐ役割もあった。 しかし1905年の改訂により日英どちらかが「領土」「特殊利益」防護のため他国と交戦する時、攻撃国の数、攻撃がどこで発生するかを問わず相互の参戦義 務規定を持つにいたり、これを理由に 日本は第一次大戦に参戦する。

日英同盟(第一次1902)
第二條 若シ日本國又ハ大不列顛國ノ一方カ上記各自ノ利uヲ防護スル上ニ於テ別國ト戰端ヲ開クニ至リタル時ハ他ノ一方ノ締約國ハ嚴正中立ヲ守リ倂セテ其同 盟國ニ對シテ他國カ交戰ニ加ハルヲ妨クルコトニ努ムヘシ
第三條 上記ノ場合ニ於テ若シ他ノ一國又ハ數國カ該同盟國ニ對シテ交戰ニ加ハル時ハ他ノ締約國ハ來リテ援助ヲ與へ協同戰鬪ニ當ルヘシ講和モ亦該同盟國ト相 互合意ノ上ニ於テ之ヲ爲スヘシ
日英同盟(第二次1905 第三次1911)
第二條 兩締盟國ノ一方カ挑發スルコトナクシテ一國若ハ數國ヨリ攻撃ヲ受ケタルニ因リ又ハ一國若ハ數國ノ侵略的行動ニ因リ該締盟國ニ於テ本協約前文ニ記述 セル其ノ領土權又ハ特殊利益ヲ防護セムカ爲交戰スルニ至リタルトキハ前記ノ攻撃又ハ侵略的行動カ何レノ地ニ於テ發生スルヲ問ハス他ノ一方ノ締盟國ハ直ニ來 リテ其ノ同盟國ニ援助ヲ與ヘ協同戰鬪ニ當リ講和モ亦雙方合意ノ上ニ於テ之ヲ爲スヘシ
この日英同盟も集団安全保障体制と国際連盟規約に反するものとして1922年ワシントン会議において破棄が決定される。その後世界恐慌による経済危機に際 し 各国は関税同盟を結び世界経済のブロック化が進み、これが世界大戦の背景の一つになるものの、大戦間期末まで二国間・多国間の軍事同盟はほぼ締結されるこ とが なかった。アメリカの不参加と常任理事国三国の相次ぐ脱退により国際連盟は無力化していくが、その理念に反し個別的な軍事同盟を結ぶことを各国は抑制・躊 躇した のである。(例外は1922年のドイツ・ソ連によるラパッロ条約。両国の外交関係を修復したが、秘密条項によりヴェルサイユ条約で空軍の保持を禁止されて いたドイツのソ連領内における航空訓練の実施などを定めた。)
当時最も民主的といわれた「ドイツ基本法(ワイマール憲法)」をもつドイツでは、1933年1月大統領ヒンデンブルクにより第一党ナチス党首ヒトラーが首 相に任命されナチス政権が誕生する。自作自演と疑われる国会放火事件をへてドイツ共産党議員81人の拘禁、亡命を余儀なくさせる中、ヒトラーは3月「全権 委任法」を成立させ議会の権限を政府に委譲し、憲法に違反する法の作成を可能とし、これによりワイマール憲法は死文化した。中間派を取り込むため第五条で これは五年間の時限立法とされたが、無論守られなかった。35年ヒトラーはドイツ再軍備を宣言、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄し陸軍10万人とされた 軍備を大幅に拡張していく。徴兵制を復活し「国防省」を「戦争省」としたが、軍隊の呼び名はReichswehr(共和国軍)を Wehrmacht(国防軍)としたのみであり、以後東欧への侵攻もヨーロッパ諸国の占領も独ソ戦もヒトラーを最高司令官とする「国防軍」によって行われ ていく。
1939年9月1日「東欧はドイツ人の生活圏」とするナチスドイツのポーランド侵攻と英仏の対独宣戦布告によって再びヨーロッパにおける戦争がはじまる が、「英国とポーランドの間の 相互扶助の合意(1939年8月25日)」のような軍事的な相互支援を含む協定が締結されたのはその直前であり、日独伊三国が「防共協定」を軍事同盟とし ての「三国同盟」に改訂するのはさらにその1年後である。
日独伊三国同盟(1940)
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ欧州戦争又ハ 日支紛争ニ参入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。

この三国同盟でさえ、ヨーロッバと東アジアの当時の戦争状況を一方的に拡大するのではなく、「参入シ居ラサ ル一國ニ依リ攻撃セラレタル時」と主にアメリカの参戦を抑制する目的を持ち、また先制攻撃への支援義務を回避している点は注目される。
これは陸軍主流と外相松岡洋右ら外務官僚の条約推進派にたいし、当時日本国内に英米協調派の海軍次官山本五十六をはじめ、ドイツやヒトラーが信頼に値する 相手なのかと疑う軍事同盟締結への根強い反対、抵抗があったことと関係している。しかし西部戦線でのフランスの敗北とドイツの優勢をうけ、条約交換公文に おいて「第三条の攻撃かどうかは三国で協議」との文言により日本の参戦は回避できるとの解釈のもと、反対論や慎重論を退けて三国同盟は締結される。その際 御前会議においても原嘉道 枢密院議長は、この同盟がアメリカを刺激し日本への圧力をより強めることにならないか、という懸念を表明したとされる。ドイツをアメリカに、アメリカを中 国に置き換えれば、現在と同じ構図である。しかしそ
うした軍事同盟締結がなんら戦争拡大の抑制や参戦回避 に資するものではなかったことはその後の歴史が明 らかにして いる。  (つづく)



    














                                                                                                                                                                 
  
     





























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