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東京高裁 都教委控訴理由書への反論    2015 年4月19日
わたしは都教委を相手にした懲戒処分取消第三次訴訟原告(50名)の一人だが、2007年3月の卒業式での不起立による減給1月の処分について、今年1月 16日東京地裁判決は1次、2次訴訟最高裁判決で戒告を超える処分がいずれも違法として取り消されたことを踏まえて他の26人の原告とともに減給・停職処 分は取り消しの判決だった。しかし、都教委は性懲りも無くわたしを含むその内の5名について高裁に控訴して、私たち5名は被控訴人となった。わたし的には これを「トーキョーファイブ」と勝手に呼んでいるのだが、都教委が高裁に提出した控訴理由書があまりにもひどいもので、この度代理人弁護士による反論のた めに、自分でも反論を書いてみた。高裁の審理は5月にも始まる。
ついに国公立大学の入学・卒業式にまで国旗掲揚・国歌斉唱を首相が言い出すなか、参考になればと思い、ここに反論のうち、全体に関わる部分を掲載してみ る。なにぶん、裁判用の文のため、長文、表現が硬いのはあしからず。
東京高裁 都教委控訴理由書への反論        
1,都教委控訴理由書全体について
 都教委は控訴理由書1の「第4 処分量定の加重について」でわれわれ被控訴人5名の本件処分前の都教委による処分、厳重注意等の「処分歴」および当該処 分前後の行為(職務命令書の不受理、校長による事実確認や都教委による事情聴取への対応、再発防止研修における発言や作成した文書の記述など)を列挙し、 「不起立(ピアノ伴奏拒否)を単なる消極的行為と見るのは、あまりに皮相的な判断」と一審判決を批判し、減給または停職処分を選択することの「相当性を基 礎づける具体的な事情」が認められると強弁する。
@しかし、ここに挙げられた過去の懲戒のうち、戒告以外のもの、具体的には被控訴人28の減給10分の1、1月および同6月、被控訴人32の減給10分の 1、1月、被控訴人43の減給10分の1、1月はいずれも2012年1月最高裁判決および2013年9月最高裁判決をへて違法な処分としてその取り消しが 確定したものである。
すでに本訴訟に先行する二次訴訟東京高裁判決において、被控訴人28の減給10分の1、6月の処分について
「都教委は---上記処分量定の方針(加重処分方針)に従い---本件処分をしたことが明らかで---本件減給処分の量定のさいに重要な前提事実として考 慮された処分歴である先行減給処分(減給10分の1、1月)は、最高裁平成24年判決Aにおいて---違法であることが確定しており、----本件処分 は、裁量権の範囲を超えるものとして違法。」(101ページ)
と判示されこれも確定している。
 にもかかわらず都教委は控訴理由書で被控訴人3名のすでに取り消された本処分前の都教委による処分を今回の加重処分の理由として未だに主張し続けてお り、都教委の主張は例えるなら、建物の1階部分は残されたが、2階3階が違法として取り壊された違法建築ビルに4階5階部分を建てようとするもので、その 錯誤・失当は明らかである。
 都教委は控訴理由書で被控訴人28の減給10分の1、1月の取り消しのみについて触れているが、その他の取り消し、処分の違法性の確定についてはなんら 触れずに3名の今回の処分を理由づける根拠とする欺瞞に満ちた主張をしており、これはもはや過失ではなく故意による違法な処分の正当化の目論見である。い や、むしろ一行政機関が最高裁判決を蹂躙する暴挙と言わなければならない。
 この問題は本審理のみにとどまらない。都教委はこれら先行する判決及び原審によって戒告を超える処分がいずれも取り消されたにもかかわらず、なんらその 違法な処分に至った自らの手続きを検証、反省することなく、さらにその違法処分について何ら当該教職員に謝罪することなく、単に行政手続きとしてのみ当該 処分を取り消し、取り消された懲戒処分に替える処分のために6~7年前の当該行為について在職者を再度事情聴取に呼び出し、それに基づいて新たに戒告処分 を発令するという二重処分に該当する行為を行っているのである。これは取り消された処分を本審理において加重処分の根拠とする主張とともに行政機関として あまりに違法・理不尽な暴挙といわねばならない。
Aまた、控訴理由書が列挙する被控訴人の処分前後の行為の多くも、すでに前記二次訴訟高裁審理において都教委が同種行為を処分加重の理由として再発防止研 修における態様や指導部長厳重注意などさまざまに掲げたが、いずれも
「研修の実施や進行を積極的に妨害するものではなく、これに具体的な支障を来したものではなかった---厳重注意の対象となった各行為は、その態様等に照 らすと、上記事情に当たるということはできない。」(94ページ)
と否定され、これも確定したものである。さらに、同判決は都教委が主張する処分理由としてのこの審理における控訴人の当該処分前後の行為(職務命令書の不 受理など)について、「なお、控訴人⚪️⚪️⚪️には上記各処分の対象とされた非違行為(不起立・不伴奏)以外に非違行為と評価される業務実態は認められ ない。」といずれも退けられており、これが最高裁判決により確定している。にもかかわらず、執拗に本訴訟においても同様の主張を繰り返すのは最高裁判決の 重みを理解しない一行政機関としてあるまじき暴挙と言うほかない。
B都教委控訴理由書は被控訴人の再発防止研修における対応を「研修の進行とは全く関係のない意見表明」「研修の進行を妨げた」「職務命令違反について何ら 反省を示すことがなかった」などと記述し、減給・停職処分の正当性を示す事情のひとつとしている。これも被控訴人すべてに言えることであるが、先行する前 記第二次訴訟東京高裁判決において、被処分者の再発防止研修における様々な態様に関する都教委の主張にたいして、
「なお,被控訴人(注 ここでは都教委)は取り消し請求の対象となった減給処分及び停職処分がされた時以降の事情についても主張しているが、懲戒処分の違 法性の判断の基礎とすべき事情は、処分時に存在した一切の事情であって、処分後の事情は含まれないから、処分後の事情については、最高裁平成24年両判決 のいう具体的事情として考慮されない。」(72ページ)
と一蹴されすでに確定している。この控訴審で同様の主張を繰り返すことは苟も法治国家における一行政機関の行為としてあるまじきものである。こうした行為 はその行政機関が行った処分の違法性を強めるばかりであり、その違法な処分が過失によるものではなく、もはや故意によるものと言うべきで、損害賠償の必要 性をより高めるものに他ならない。
 このように、都教委の主張はいずれの被控訴人についても原審の都教委準備書面を踏襲したものであるが、原審の処分取り消し判決によってその誤りが指摘さ れているにもかかわらず、今回もそれが繰り返されており、ここまで執拗に研修参加者の発言を捻じ曲げ、歪曲して誹謗を続けるのはもはや通常の弁明行為を超 えており、刑法上の誣告罪、名誉毀損罪に該当するのではないか。
Cまた、都教委は準備書面で各被控訴人の10.23通達や職務命令の違法性を指摘する再発防止研修での発言や 提出した課題文書で示した見解について「独自 の見解」「明らかに誤った内容」「反省せず」などとし、これらを加重処分の根拠とする錯誤を犯しているわけだが、わたしをふくむ被控訴人たちがその際判決 の一文を引用した2006年9月21日「国歌斉唱義務不存在確認訴訟」東京地裁判決はなんら「独自見解」ではない。都教委による卒業式等における国歌斉唱 の強制は憲法第19条及び教育基本法第10条に違反するという判断はこの判決だけではなく前記2012年最高裁判決における宮川光治裁判官の反対意見でも 採用されており、また各弁護士会の度重なる都教委への勧告・警告(2004.9.7(東弁)/ 2007.2.13(第二)/2007.2.16(日弁連))でも採用されている見解である。公務員たる教職員への起立斉唱の職務命令が思想・良心の自由 を保障する憲法第19条に抵触するとの説は憲法学界の多数意見であり、決して独自なまた特異なものではない。 
 また、教職員への職務命令による起立・斉唱の強制は生徒に対しても同様の強制となる。日本国憲法の掲げる基本的人権の尊重の理念の教育は、ただ授業で条 文を説明すれば良いものではなく、学校の行う教育活動全体の中で生徒相互の人権を大切にすることを通じてのみ実現していくのであり、学習指導要領の国旗・ 国歌の規定が憲法の人権条項より上位に位置しているのではない。国歌を歌うことは単なる儀礼的行為ではない。本来深く内心、信仰、良心に関わる行為であ る。それを単なる儀礼的行為として行政機関が教職員に強制することは生徒にとっては起立・斉唱への強い圧力となる。とくに、信仰、民族的出自や歴史的経緯 から歌いたくない、または歌えない生徒たちにとってはなおさらである。都教委の本件通達や「指導」は「教職員に起立・斉唱を強制することで、意図的に生徒 に対して斉唱を誘導する」行為にほかならない。 
 付け加えるなら、都教委はここで「独自見解」を少数意見や特異な見解という意味で使用しているが、ひとが「独自見解」を持つことはなんら批判・揶揄され るべき事柄ではない。中世西欧のウィクリフ、ヤン・フス、トマス・モア、コペルニクス、ブルーノ、ガリレイなど、それにより破門されたり命を奪われたひと びともいるが、彼らの全存在をかけた「独自見解」こそが人類の英知を深め歴史を動かしてきたのである。学校が卒業式などの式典で、もし国旗掲揚・国歌斉唱 を行う場合でも、学習指導要領の国旗・国歌の規定よりも日本国憲法の掲げる人権条項が上位に位置するものとして、その参加者の誰もが起立・斉唱に関して自 らの信念、良心、信仰による対応をとる自由が保障され、それらを相互に容認する寛容な学校と社会こそ、日本国憲法が志向する民主主義の有り様としてふさわ しいとする見解もそういう意味でかりに「独自見解」であっても、まさに未来を形成するものであることを確信する次第である。
Dこのような見解を持ち再発防止研修の場でも表明したことについて、「反省せず」として加重処分の根拠とすることは処分手続きとしてすでに指摘したように 全く不当だが、じつは都教委のこうした姿勢にこそ都教委の本件通達とその後の一連の「指導」の本質が露呈している。それは自らの思想・良心により職務命令 に従わなかった、もしくは従えなかった者に対して再発防止の名の下に加重処罰を前提にその思想・良心に反する行為を強制し、その思想・良心そのものの変更 を強要する姿勢である。これは明白に憲法第19条に抵触する行為であり、都教委の国旗・国歌強制の本質を示す証左である。
 これは2011年6月6日嘱託採用拒否事件最高裁判決における宮川光治裁判官の反対意見が正しく指摘するところでもある。
「本件通達は,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に 置き,その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる。」 (16~7ページ)
 公務員の非違行為として掲げられる他の事例、例えば体罰、交通事故、破廉恥行為、職務怠慢、争議行為への参加などへの東京都を含む各自治体による処分と 比べて不起立等に対する戒告処分がすでに過重であり、さらに不起立等を1回目は戒告処分、2回目は減給1月、3回目は減給6月、4回目は停職1月、5回で 停職3月、6回で停職6月とする極めて重い「加重処分」の方針を都教委は採用していたが、ただ静かに着席している行為に対してこれらはあまりに過重であ る。したがって前記最高裁判決ではこれら加重処分はいずれも取り消されている。
 これは都教委が掲げる「学校の規律や秩序の維持」という処分の目的がまさに失当であることを物語る。その真の目的は、このような処分を繰り返すことで被 控訴人ら都教委のこうした指導、強制に服従しない、できない教職員を最終的には都立学校から排除し、それによって他の教職員にたいする見せしめとして上意 下達の教育行政を東京都において確立することにほかならない。だからこそ都教委はすでに取り消された処分への反省・謝罪もなく新たに戒告処分を発令するこ とに固執し、その姿勢をこの準備書面でも何ら反省・検証せず過重処分維持の強弁を繰り返しているのである。
 我々5名の被控訴人への口頭及び文書による校長、副校長の職務命令の発出の際の執拗な態様、また国歌斉唱時に静かに座っている被控訴人に対する副校長の 執拗に起立を促す発声などを記す都教委準備書面の記述は、例えばその起立を拒んだ被控訴人の処分の理由とされるものではなく、これらを冷静に読めば、むし ろこれら校長、副校長の行為が如何に教職員の人権を抑圧・侵害し、他の教職員を威圧する行為であるか、その実態を都教委自ら記したものと言わなければなら ない。
Eさらに、都教委は控訴理由書で2010年2月「君が代」解雇裁判東京高裁判決の「本件不起立行為は、国旗・国歌条項の実施についての都教委の措置に対す る抗議、反対の意思表明としての意味合いを有するものであり、----本件不起立行為の態様が単に消極的、受動的なものにすぎないとする前期イの控訴人ら の主張@は本件不起立行為の一側面のみを取り上げるものであって、採用することができない」の文章を繰り返し掲げ、さらに「意味合いを有する」の表現を 「本質は---意思表明にある」と言い換えてまで加重処分の相当性の根拠として「混乱の意図が全くない単なる消極的行為に過ぎないとする原審の取り消し」 を求める。
 しかしこれも錯誤に満ちた主張と言うほかない。この判決は同種裁判判決のうち最も不当なもののひとつだが、その審理はただ一度の不起立行為により戒告処 分をうけ、不起立のみを理由に定年退職後の再雇用職員としての合格を不当にも取消された10名の教職員(そのうちの一人はわたしと同じ職場にいた嘱託の平 松教諭である)についてのものである。  
 これが被控訴人5人の戒告処分より重い当該処分の加重量定の根拠とはならないのは自明のことである。もし根拠となるのなら、ただ一度の不起立行為に対し ても加重量定に等しい減給以上の過酷な処分が可能となり最高裁判決に明確に反することになる。都教委の主張は、逆にこの君が代解雇裁判高裁判決の不当性を 浮かび上がらせるものである。
 前記嘱託採用拒否事件2011年6月6日最高裁判決は教職員の不起立・不伴奏の理由として次のように認定している。
「上告人らは、卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する前提として、大別して、@戦前の日本の軍国主義やアジア諸国への侵略戦争とこ れに加功した『日の丸』や『君が代』に対する反省に立ち、平和を志向するという考え、A国民主権、平等主義等の理念から天皇という特定個人又は国家神道の 象徴を賛美することに反対するという考え、B個人の尊重の理念から、多様な価値観を認めない一律強制や国家主権に反対するという考え、C教育の自主性を尊 重し、教え子たちを戦場に送り出してしまった戦前教育と同様に教育現場に画一的統制や過剰な国家の関与を持ち込むことに反対するという教育者としての考 え、Dこれまで人権の尊重や自主的思考及び自主的判断の大切さを強調する教育実践を続けてきたことと矛盾する行動はできないという教育者としての考え、E 多様な国籍、民族、信仰、家庭的背景などから生まれた生徒の信仰や思想を守らねばならないという教育者としての考え等を有している。」(3~4ページ)
 これが現在司法において定着している、職務命令に反し不起立等を行った教職員の不起立等の理由とされているものであり、都教委の主張する「本件行為の本 質は---都教委の対応に対する抗議・反対の意思表明」などと矮小化することは許されない。控訴理由書で判決を引用するならば、これら最高裁判決を引用す るのでなければならない。上記2010年2月東京高裁判決の該当箇所は、これら最高裁判決によって実質的に否定されているのである。これは図らずも、都教 委が自身に不都合な最高裁の判断を顧みず、むしろそれを行政機関として軽んじていることの証左である。教育に携わる一行政機関としてありえない姿勢と言う ほかない。
 以上のように、都教委の控訴理由書は手当たり次第控訴の理由になりそうなものをよく吟味せず寄せ集めた極めて稚拙・杜撰なものに過ぎない。問題は都教委 が高裁、最高裁判決で確定した加重処分の違法・不当性の検討を真摯に行わず、被処分者に謝罪することもなく、それら判決文を精緻に読みこなすこともせず、 一連の裁判判決の内容の整理、吟味も行わず、すでに否定された事柄を臆面もなく繰り返すだけで、みずからの違法行為にたいする真剣な反省と検証を全く欠い ていることである。そうでなければこのような極めて稚拙、杜撰な控訴理由書が提出されるはずがないのである。







    








                                                                                                                                                                 
  
     





























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