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砂川事件判決1




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最高裁砂川判決の漆黒の闇 (1) 2015 年7月5日
このところ、砂川事件に関する東京地裁 判決いわゆる 「伊達判決」とそれを破棄した最高裁判決について自分なりに整理し考えてい る。むろん、きっかけは戦争 法制、「安保法制」の根拠として政府がこの最高裁判決を持ち出しているからだ。
私はむかし「三多摩の秀才」が行く公立と言われた立川 高校に通ったのだが、当時服装は自由、宿題はほとんどなし、バイク通学も可 というのんびりした学校 だった。黄色い三階建ての校舎の北西部に4階音楽教室、その上の5階、6階の塔がそれぞれ山岳部、天文部の部室で、友人二人が部員だったのでよく山岳部室 に出入りしてそこで煙草を吸ったものだ。
----そういう経験のおかげで?大学時代から山に行 くようになり、後日都立高校の教員になって山岳部などの顧問をしたり喫煙四 回で退学などという校則の 廃止に取り組むことができた、と自分では思っている。
部室の窓からは迷彩色の米軍輸送機がその塔かグラウン ドを目標にゆっくり旋回して飛んで来るのが度々見えた。立川駅の北西に米軍 立川基地が広がり、当時は ベトナム戦争で米軍が地上戦の泥沼に突入していた時期である。私は当時ほとんど「ノンポリ」で(いまでもか)、放課後たまに駅の北側のエリアのバーに行く と、米軍兵士らしい若者が静かにバーボンか何かを飲んでいたが、米軍基地や安保条約につよい関心があるわけではなかった。
----そういう経験のおかげで-----は置いてお き、その米軍立川基地の北方にあったのが砂川町で、1957年基地拡張に反 対するデモの際、敷地内に 4.5メートル立ち入ったことで刑事特別法第二条違反として学生たち23人が逮捕、7人が起訴された事件が砂川事件である。
この事件を審理した東京地裁の1959年3月30日い わゆる伊達判決は、日本国憲法前文及び9条について、
「第九条----は、自衛権を否定するものではない が、侵略的戦争は勿論のこと、自衛のための戦力を用いる戦争及び自衛のための 戦力の保持をも許さないと するもの」であり、かつ
「この規定は---国際連合の機関である安全保障理事 会等の執る軍事的安全措置等を最低線としてこれによつてわが国の安全と生存 を維持しようとする決意に 基くもの」とし、さらに日米安全保障条約とそれにより駐留する在日米軍について検討し、
「わが国に駐留する合衆国軍隊は----当然日本区域 外にその軍隊を出動し得るのであつて、----わが国が自国と直接関係のな い武力紛争の渦中に巻き込 まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞は必ずしも絶無ではなく」との認識に基づいて、
「(合衆国軍隊の駐留は)日本国憲法第九条第二項前段 によつて禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するもの」と認定 し、
「刑事特別法第二条の規定は----何人も適正な手続 によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効なもの といわなければならな い。」
として被告7名の無罪を宣告した。
当時(1959~60年)は58年10月から交渉が始 められた日米安全保障条約の改定期であり、「米国の戦争に巻き込まれる」と してそれに反対する「安保 闘争」が高揚していた時期でもあり、岸内閣はこの判決に衝撃を受けつつ4月1日に安保改定交渉継続を声明するなどその対応に追われながら、3日法務省は最 高裁に直接上告=跳躍上告=すると発表する。このとき、安保条約の一方の当事者である米国の日本大使、公使が様々な動きをしていたことが、近年新たな資料 の発見により明らかにされてきている。そ れらは
(1) ジャーナリスト新原昭治氏が2008年4月、米国立公文書館で入手した砂川事件「伊達判決」に関する米国政府解禁文書14点の「砂川 ファイル」(在日米大使館から米国務省への外交電報および航空書簡等)のコピー
さらに
(2)2012 年3月ジャーナ リスト末浪靖司氏が米国立公文書館で入手した 11月5日付けの航空書簡「G-230」のコピー
つ ぎに
(3) 布川玲子山梨学院大学教授が米国立公文書館に『情報自由法」に基づ いて開示請求し2013年2月末に入手した8月3日付けの航空書簡「G-73」のコピー

である。
資料(1)によると、翌31日マッカーサー(2世)駐 日大使は藤山愛一郎外務大臣と面談し、「同判決を最高裁に直接、上告=跳躍上告=すること」を示唆 し、その理由を「高裁への訴えは最高裁が最終判断を示すまで論議の時間を長引かせ---これは、左翼勢力や中立主義者らを益するだけ」としている(3月 31日の極秘電)。つぎに米国大使は3日の電報(「秘」扱い)で「政府幹部は伊達判決が覆されることを確信しており、案件の迅速な処理 に向けて圧力をかけようとしている。 多くの要素が、早期の最高裁判決を 望ましいものにしている 」と国務省に報告している。
この駐日米国大使の動きとともに、その「示唆」をわず か三日で実行し、行政権とともに司法権の独立をも無視して最高裁に「圧力をかける」ことを企て、さら にそれを米国大使に伝えている日本政府の姿がうかがえる。
最高裁はこの戦後二回しかない跳躍上告を受理し舞台は 最高裁に移るが、ここで取り上げるのは最高裁長官田中耕太郎判事のその後の行動である。
資料(1)「砂川ファイル」中の4月24日の国務省あ て駐日大使の電報(「秘」扱い)には、駐日大使との「内密の話し合い」で本件の裁判長裁判官田中は、
「本件には優先権が与えられているが、日本 の手続き では審理が始まったあと判決に到達するまでに、少なくとも数ヵ月かかる 」(A)
と語ったと記されている。
つぎに、資料(3)8月3日発の国務長官宛の航空書簡 「G-73」は田中裁判長が在日米大使館首席公使レンハートに対し「共通の友人宅での会話」の中で

「砂川事件の判決は、おそらく12月であろう と今考えて いる」 (B)
「弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手 段を試みているが、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込 める決心を固めている」(C)
「口頭弁 論は、9月初旬に始まる週の1週につき2回、いずれも午前と午後に開廷 すれば、およそ3週間で終えることができると確信」(D)
「問題は、その後で生じるかもしれない。というのも14人の同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがるからである。----結審後 の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶる素になる少 数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っている」(E)

などと述べたとを報告している。砂川事件の最高裁大法廷での公判期日決定は8月3日であり、布川教授はその数日前と推定される「友人宅での会話」でその情 報が事前に米国に伝えれていたことを示すこの資料を「重要な意味を持つ」としているが、まさにその通りだろう。

また、資料(2)11月5日付けの航空 書簡「G-230」には11月5日以前に田中裁判長とマッカーサー駐日米大使との間で 「最近の非公式の会話」がおこなわれ、 田中裁判長が
「時期については明言できないが、いまや来年のはじめ までには最高裁は判決を下すことができるだろう」(F)
「可能であれば、裁判官全員が一致して、適切で、現実 的な、いわば合意された基本的規準に基づいて裁判に取りかかることが重要だ」(G)
「裁判官の何人かは「手続上」の観点から事件に取りか かろうとしているのに対し、他の裁判官は「法律上」の観点から事件を見ており、さらにまた「憲法上」 の観点から問題を考えている者もいる」(H)
「伊達裁判官が憲法上の争点について判断を下したこと は大きな誤りであった」(I)
などと話したことが報告されている。
これらの資料は、2014年6月17日 砂川事件元被告 たちが提起した「免訴を求める再審 請求」に関わる「司 法行政文書開示申出書」が指摘(5ページ)するように、砂 川事件の上告審の裁判長裁判官が審理係属中に、裁判の一方の当事者である上告人(検察 官・政府)と密接な利害関係を有す る米国大使や公使(刑事事件としての砂川事件の「被害者」米軍立川基地の対日代表でもある)と密会し裁判情報を提供し、合議の秘密を漏らし一 方の当事者に加担するという、裁判官としての職務上の重大な義務違反を犯したということを示している。憲法37条「公平な裁判所」の理念に抵触し、審理の 秘密保持を規定した裁判所法75条にも違反する、これは高校生の喫煙と比較にならないほど重大な、最高裁長官による国家の根幹を揺るがす非違行為ではない か。問題は「漏らした」あるいは「情報提供」にとどまらない。「一方に加担する」という行為の重大性である。これら資料中の田中長官の発言は、彼が日米安 全保障条約の改定交渉の成立の疎外物となった「伊達判決」を覆すために日本政府および米国駐日代表部と一体となって秘密裏に情報交換、情報共有し、「司法 の独立」を幾重にも破って尽力しているさまを如実に示している。これらは最高裁長官による職務に関わる極めて政治的な行為であり、彼が裁判長として担当し たこの最高裁砂川判決の公正性・正当性を根底から覆す資料である。
田中長官の駐日大使等への発言中(A)(B)(D) (F)はこの最高裁審理の期間、判決の時期の見込みを語っている。当初4月には「審理開始後数ヶ月」と していたものが、8月には「おそらく12月」、11月には「来年のはじめまでに」となり、それに基づいて日米は当初1959年6~7月としていた新安保条 約調印の時期を1960年1月まで延期した。事実、一審判決を破棄・差し戻し、大法廷の「全員一致」の砂川最高裁判決は12月16日であり、安保条約調印 は1960年1月19日である。
田中裁判長はたんに審理の今後の予定を語っているので はない。発言(C)(D)は、弁護団に対抗して、被告のためにではなく日米両政府のために「迅速」な 審理を行う旨を米国首席公使に語る言葉である。さらに発言(E)(G)で繰り返される「裁判官全員一致」の重要性や「願い」の表明は、大法廷判決に「反対 意見」が唱えられ、伊達判決の日米安保条約違憲論が最高裁裁判官の一部にでも引き継がれ、条約反対の世論が引き続き高揚することを恐れてのものである。こ れは日米安保条約を憲法違反とする「伊達判決」を最高裁が覆したのち、異論を排して条約調印を行うための極めて政治的な行為であり、最高裁長官たる裁判長 裁判官が主体的に参画しているのだ。この最高裁判決はよく知られるように初めて「統治行為論」を採用し、司法が「高度な政治的判断」に関わることを否定し ながら、自らはその「高度な政治的判断」に秘密裏に積極的に関わるという欺瞞に満ちた姿。これら資料は戦後日本の政治・外交・司法のどす黒い漆黒の闇を照 らし出す。                                         (つづく)







    








                                                                                                                                                                 
  
     





























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