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2017年 8月31日
「次はあなたたちの番だから」
 原爆で焼かれた赤い背中の少年、谷口稜曄さんが亡くなった。享年88。 
 長崎原爆の生存者として被爆者運動を立ち上げ、1980年代から国連などで核兵器廃絶を訴えられてきた。振り返れば1982年の10フィート運動ドキュ メント映画「予言」(羽仁進監督、武満徹音楽)は毎年繰り返し授業で上映した。被爆後の焼けただれた赤い背中と国連でひたむきに訴える姿が何よりも印象に 刻まれた。
 核兵器禁止条約はこうした被爆者運動の成果だが、残された様々な課題がこの国と世界の「生存者」に託されている。ご冥福を祈りたい。

《長崎の原爆で一瞬にして焼かれた背中の大やけどは核兵器廃絶に向けた覚悟、そのものだった。生きる苦しみに耐えながら国内外で被爆の悲惨さを訴え続け、88歳で亡くなった谷口稜曄(すみてる)さん。核廃絶への思いは次世代に託された。ーーー


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2017年 8月23日
 1923年関東大震災における自警団と軍等による朝鮮人、中国人などの虐殺について記したサイトはいくつかあるが、「記憶を刻む 1923年関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺関連の資料と証言」は、当時東京都下で虐殺を目の当たりにした人々の手記、証言を集めたもの。
 ポール・クローデル、黒澤明、稲垣浩、早川徳次、清川虹子など著名な人々の話も読める。流言、デマのもとで弱い立場の人々が数多く無残に殺害されたことがわかる。ここに一部引用させていただく。
「警視庁木下刑事部長は勿論実際捜査の任に当たつた小泉捜査課長も「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い」と断言してゐるが、それにしても鮮人に関 する極端に奇怪なる流言は何処から来たのか、ずいぶん苦心して調べてゐるらしいが未だにはつきりした出所がわからない」(読売新聞1923年9月15日記 事 山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料2』緑蔭書房、2004年)
「焼け出された親戚を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。ーーーもっ と馬鹿馬鹿しい話がある。町内の、ある家の井戸水を飲んではいけないと云うのだ。/何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは 朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと云うのである。/私はあきれ返った。/何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。 私はこういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった」(黒澤明『蝦蟇の油―自伝のようなもの―』岩波現代文庫、 2001年。初刊は1984年)
「いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。
こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています」(ポール・クローデル駐日大使『孤独な帝国 日本の1920年代』草思社)
「目下東京地方にある支那人は約4500名にしてうち2000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目において鮮人放火嫌疑に関連して支那人および朝 鮮人300名ないし400名3回にわたり銃殺又は撲殺せられたり」警視庁広瀬久忠外事課長直話(1923年9月6日)(アジア歴史資料センターHPレファ レンスコードB04013322800)
「朝鮮人の従業員の一人の李さんも訪ねてきた。そこへ例の朝鮮人に関する流言飛語である。町内の連中がきて、「朝鮮人はいますか。いたら殺してしまう」と いう。私は「いません」といってウソをついた。何も悪いことをしていない人をつき出すわけにはいかない。しかし、かくまっているとただではおかないという 風評が伝わってきて家族の者たちが動揺し出した。私は固く口止めをして、李さんを押し入れの中にかくまい、三度の食事を自分で運んだ。(中略)町で実際に 朝鮮人が殺されるところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていった」早川徳次(シャープ創業者)
「隅田川の橋の上で、朝鮮人がぼくの目の前で殺されているのを、はっきりと覚えています」稲垣浩(映画監督)
「そのころ割に井戸掘ってある家があったわけですよね―だから井戸水はいっさい飲んじゃいかんっていうわけでね、みんな朝鮮の方が毒を入れてあるからって いうんですよ。マイクでね。そういって怒鳴ってくるわけ。在郷軍人だとか、そういう連中がね、いっさい飲んじゃいけない、飲んじゃいけないっていってくる から、あたしたち水に困っちゃうわけでしょ。
その憎しみと両方あったんでしょうけどねえ、もう朝鮮人とか支那人とかそういう人を見れば全部その、井戸に毒を入れたのは朝鮮人だと称して、いい朝鮮人も 悪い朝鮮人も全部かまわずにね、みんなつかまえてね、その場で殺しちゃう」(高良留美子「浅草ひょうたん池のほとりで―関東大震災の聞き書き」『新日本文 学』2000年10月号)
「(九月)五日の日であった。
「朝鮮人が来た」と言うので早速飛び出して見れば、五、六人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けど も少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我もと押し寄せ来たりて、「親の敵、子供の敵」等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すの で、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時か死して行く。死せし者は隅田川にと投げ込む」(成瀬勝『大震災の思い出』非売品、2000年)
「現場に行ってみると、地獄のありさまだった。
保護に当っていた警察官の話では、「本当に、手の付けようがなかった。」とのことであった。
調べて見ると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた。人間が殺される時は一ヵ所に寄り添うものであると思い、涙が出てしかたがなかった。
後で判ったことであるが、船橋の消防団員が、朝鮮人の子ども二人を抱えて助け出し、逃げて警察に連れて来たとのことだった。少しは人の情というものが残っていたと思った。
五三人の屍体は、附近の火葬場の側に一緒に埋めたが、その後、朝鮮の相愛会の人達が来て、調査するとのことで屍体を焼却して散乱してしまった」(船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんによる手記)
「井戸に毒を入れたとか、襲ってくるとかそんな話が伝わって、みんなで警戒しました。よそ者を見つけては近所の若者が朝鮮人かどうか調べていました。君が代を歌えと言われて、東北から来た人は訛ってうまく歌えず、朝鮮人と間違えられたとも聞きました。
私も見ました。つかまって後手に針金で結わかれて隅田川に投げ込まれたのを。でも、どうかすると足だけでもうまく泳げます。しかし、逃げようとするところ を、伝馬船に乗っている若者が鳶口で頭をたたく。血しぶきが立ち、そのうち沈んで行きました」(村松君子『思い出は万華鏡のように』朝日新聞出版サービ ス、2004年)
「朝鮮人を1人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。
わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました」(清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)
http://1923archives.blogspot.jp/search/label/01%2F証言集「流言と混乱」編
http://1923archives.blogspot.jp/search/label/02%2F証言集「朝鮮人迫害」編




2017年 8月23日
「炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいる」「少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました」米国の従軍カメラマン 故ジョー・オダネルさん
「人間の存在の原点を、占領者としてではなく同じ人間としてカメラに収めている」「ただ『忘れない』ということが大切と思う」妻 坂井貴美子さん
 
 9日の記事。長崎に入った米国の従軍カメラマンが撮影した被爆地と被爆者の記録。投下は過ちと米国内で訴える写真展を開き続けた。
 翻ってこの国のいまの在り方はどうか。核兵器違法化条約に核の傘の下にいるからと政府は反対し、首都直下地震とオリンピック開催を控える都知事は94年 前の大震災における風評による他民族の虐殺をなかったと主張する一部の者に迎合する。どちらも、『忘れない』ことの大切さは顧みられない。
《原爆投下後の長崎で、亡くなった幼子を背負う「焼き場に立つ少年」。撮影した米国の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんの妻が夫の生涯をたどり、長 崎原爆の日の9日に著書が出版された。「投下した側」でありながら、投下は過ちと訴え続けた足跡を写真と共に追っている。
 オダネルさんは被爆後の広島、長崎などで、私用カメラを使って約300枚を撮影。フィルムは封印していたが、1989年に反核の思いが込められた彫刻像 を見たのを機に、「核戦争を繰り返さないことにつながるなら」と写真展を開いた。原爆正当化論が根強い米国で批判に耐え、2007年、8月9日に85歳で 亡くなるまで各地で写真展を開き、戦争反対を訴えた。ーーー




2017年 8月23日
 夏は過ぎず、朝から湿度が高い。宿を出て御所の湯の滝を眺める露天に入り、地ビールのあと川沿いの店で但馬牛カレー頂き、昼過ぎにjrとバスで来た道を福知山経由で神戸に帰る。こちらもまだまだ暑い。




2017年 8月22日
 曇天の下三宮からバスで丹波を北上し福知山経由jrで城崎温泉に出る。この辺は但馬、そう言えば先日但馬守が非業の死を遂げていたか。
御所の湯の露天に浸かると激しい雷雨、上がると晴れて地ビールいただく。早めに夕食を食べているとまた雨。出る頃には止み、灯籠流しの準備始まる川沿いのレストランでコーヒー飲み、宿に帰って7時過ぎに戻ると灯籠流しが始まっていた。
一の湯の洞窟風呂に入り暫く待つと9時に花火が上がる。日中は残暑厳しいが夜は流石に涼しく夏が終わるよう。

   


2017年 8月16日
 八月は曇天続き、今日午後いっとき晴れ予報で須磨に出ると快晴。海の家で昼を食べ砂浜に寝転び時々海水浴。冷たいナトリウム泉のよう。日差しで砂が熱い。2時に出る頃にはまた曇る。




2017年 8月5日
 今日は神戸港花火。関西圏人気一番とかで、さらに今年は開港百五十周年で打ち上げも増やす由。
 夕方三宮に出て混み合うそごうで寿司弁、最寄りのコンビニでビールをどうにか購入して第一埠頭に向かう。家族連れや浴衣の女子とカップルが多い。弁当食べて1時間ほどで打ち上げ開始、歓声。
 残暑の光の饗宴を堪能して終了少し前に帰路につく。京町筋でも観る人たちがいて最後の打ち上げも見えた。流石に駅も混んでいたが9時半には帰宅。今日は夜も暑い。


 


2017年 8月4日
 朝テントをたたみ、キャンプ場を出て平湯民俗館の露天に浸かり、高山行きのバスに乗ると満席。
 高山古民家通り端の蕎麦店でお昼のあと、コーヒーでもと歩くとここは酒蔵の町、気付いたらその一軒のテラスで升酒を飲んでおり、ついでに室内でもグラスでいただく。合わせて一合。
 駅横のターミナルから大阪行きバスに乗り飛騨をあとにする。iPhonの電源切れそうだったが、座席にコンセント発見し充電。途中SAは暑さ復活、夕方近江でまもなく京都。
 定刻6時10分京都駅八条口前に着き、軽く夕食に回転寿司と思ったが行列、隣のイタリアンであっさりしたジェノベーゼを食べて梅田経由で9時に帰宅した。

    


2017年 8月3日
 平湯三日目、紫陽花の咲く古民家資料館の露天に浸かり、バスターミナルの食堂で地ビールと飛騨豚味噌カツ頂き、初めてバス停二つ目の福地温泉石動の湯に行くと好みの鄙びた湯。明るい内湯と露天、五平餅も付いて500円。
 平湯に戻りひらゆの森で温泉巡りを蕎麦の夕食で終了。食事以外はほぼ湯に浸かる一日だった。



 


2017年 8月2日
 朝から快晴だが標高1300mは涼しい、夜明け前は寒いくらい。
 バスで上高地に出て大正池から幼児も楽しげな田代池を経て河童橋手前のロッジで野菜の多いお昼。岳沢を見て木道を明神橋まで歩き山道を上高地バス停まで戻る。兵庫の高校がキャンプしていた。
 帰路平湯の森に浸かり陽のあるうちにテントに戻る。夜は雨予報。

     


2017年 8月1日
 今日から八月、jrで京都に出て濃飛バス高山行きに乗る。滋賀から岐阜へ列島の背骨のような道を北上、美濃からは豪雨だがすぐ止んだ。
 高山でローカルバスに乗り換え四年ぶりに夕方平湯キャンプ場に着き、テント設営しとなりの平湯の森温泉に入る。硫黄泉が心地よい。食堂でカルビ丼、カフェでコーヒー。気温20数度。 








                                                                                                                                                                
  
     





























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