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2017年 12月31日
 大晦日は快晴で朝が明けた。ホテルカウンターの女性が今日は家の雪かきしないで来れましたと。こんな快晴はこの時期年に幾度 もないとも。外気は手袋も要 らない暖かさ。
 除雪の雪が小山のような倶知安駅前から路線バスでヒラフを経由して、ユナイテッドバス乗り継ぎを兼ねて今日もミルク工房で下車すると、大晦日と元旦は休 み。
 併設のピザ店は11時から開くようで、しばらく向かいの黒が基調の店でコーヒー。開放的なピザ店は大きいガラス窓の正面に羊蹄山が絵に描いたように見え る。先客はここをよく知っているのだろう中国系の人たち。地産の野菜サラダで満腹、ピザは一切れだけにしてテイクアウト用の箱が無料でもらえて今夕用に持 ち帰る。
 接続バスは今日も遅れ、バス停で待つ外国人の若者三人が通る車にヒッチハイクの仕草を続けてやっと止まった車がハイヤー。三人は尻込みして私がいこいの 家に行けるか聞くとOKなのでそのハイヤーでいこいの湯に行き、露天に浸かって1時28分発の札幌行きバスに乗る。
 ドライバー氏は北海道に来て4年の青年で、わたしから「大体自分がニセコを去る日は晴れる」と自己紹介すると、やはりこの時期の数日来の暴風雪と今日の こんな好天は初めてと。今日は日曜で大晦日、きっと人びとへの天からのご褒美なのだろうと意見が一致。
 ニセコでスキーしていた小学生も倶知安から前の席に乗り、羊蹄山とアンヌプリを左右に見ながら国道を余市に抜け、小樽から札幌に空いている高速道を計3 時間で移動。小樽で交代するドライバー氏と「良い年を」でお別れした。
 4時半過ぎもう空は暗くなり、大通り公園近くで下車してビールなど買ってススキノの先の豊川稲荷別院よこの宿に到着。窓から月も見えたが、やがて曇り 空。BSで黒沢の赤ひげをやっている。役者は皆怪演、こういう豪気と柔弱がこの国にあったのか。皆さん良い年を。


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2017年 12月30日
 今年もあと二日、静かに夜が明けてアンヌプリが姿を現した。ゲレンデに上がると羊蹄山は冠をしたまま、やがて曇り空となる。
 1000メートル台地で何本か滑り、ゲレンデの中にある望洋荘で早めの昼を食べてとなりの旧東山ヴィレッジに行き、昨年から開かれたno.11ゲートか らオフピステを初めて降る。ニセコで新しい深雪ゾーンだが、最大斜度40度もあるようでこちらの拙い技量では悪戦苦闘。ヒルトンに着くころにすっかりバテ て、そのままミルク工房で休むと再び空が晴れた。
 ヒルトンに戻って立ち寄り湯に浸かり、昨日と同じユナイテッドバスでやはり渋滞で遅れて倶知安に帰る。
 夕食に駅近くの新しいK'sFACTORYというバルでかぼちゃのサラダと鹿肉の赤ワイン煮込みをビールと赤ワインで食べたが凄く美味で料金は1500 円ほど。となりの一昨日利用したレストラン旬菜の系列とのこと。地元の人たちが忘年の飲み会?で賑やかだった。夜天候は落ち着きナイターの灯りが見える。



2017年 12月29日
 今日も朝から雪。宿で朝食後倶知安からバスでヒラフに向かうと沿道には例年より積雪多い。ヒラフ最上部リフトはクローズで、その下の緩斜面の深雪で雪面 が良く見えないままいきなり初滑り。
 最初のリフトの隣がスウェーデンからの青年たちで午前中だけでスウェーデン語、スペイン語、イタリア語、フランス語に勿論英語と中国語が聴こえた。昼ま えに花園ゲレンデに下り、海外客だらけのレストランでスープとクロワッサンでお昼。
 午後から頂上のリフトが動き、深雪と格闘してアンヌプリゲレンデに行く。パラダイスヒュッテで一休みして降り、ベースのクワッドリフトに乗っていると日 が射してアンヌプリ山が顔を出し、羊蹄山も中腹まで姿を現した。何かのご褒美か、雪面が良く見え出して快適に数本を滑る。
 3時には切り上げて奧の宿いろはに行き深い雪に囲まれた露天に浸かる。ここも年々海外客が増えている。
 全山券で乗れるユナイテッドバスで雪と渋滞で30分ほど遅れてヒラフに戻り、ふじ鮨で早めの夕食を食べオーストラリアンだらけのカフェでコーヒーを飲 み、やはりユナイテッドバスで降りしきる雪の中倶知安に7時に戻る。



2017年 12月28日
 宿の運河に面した二階の食堂で朝食の後まちなかとは思えない風情のある露天に浸かり、雪の中を北一硝子旧館まで歩き倉庫を転用したカフェでランプの灯火 を堪能。
きた道を戻り、旧北海道銀行本館のバインで昼食。ここは辰野金吾の設計で1912年開業、同じ辰野設計の東京駅は開業1915年で、こちらのほうが古いと いう。
 午後小樽からJRで倶知安に向かう。ここは羊蹄山とニセコの麓で豪雪地帯だが、今回の風雪は別格のよう。駅前の宿ナンコウに荷を預け道南バスでニセコ十 字街で降りて雪の壁の下をニセコ駅前の綺羅の湯まで歩き、心地よい湯に浸かる。地元の人たちの話でも凄い降雪らしい。
 6時前のJRで倶知安に戻り、駅前のレストランで美味な鹿肉カレーを食べて宿に戻った。夜も雪が降りしきる。



2017年 12月27日
 珍道中四日目、天候少し落ち着き朝里の宿で朝食と朝風呂のあと送迎バスで小樽築港に戻る。早めのお昼を食べ、ウイングベイ小樽シネマでかまくら物語を観 賞。
ドイツ語が聴こえるJRで小樽駅に降りるとニセコに向かう旅行者の群れ。運河プラザで一休みの後今日の宿小樽ふるかわにチェックインして久しぶりにここの 温泉に浸かる。露天に灯火が並び心地よい。
 運河沿いの小樽ビール工場、寿司小路の富士鮨そしてワインの小樽バインを聖地巡礼して宿に戻る。寒さは変わらずだが荒天はかなり緩んだよう。



2017年 12月26日
 今日も荒天、未明に雪深い露天に浸かり朝食後雪道を1キロほど歩き国際スキー場行きバスを待つが、来ない。30分ほど過ぎてバス停前のやどふるかわのフ ロントの女性が今日スキー場への道が不通となってスキー場はクローズし、行きのバスも運休したと教えてくれた。スキー場から小樽への道も不通とか。
ボードとウェアを先週国際スキー場に送ってあり、万事休す?しかしフロントの人のアドバイスでスキー場に電話すると、スタッフが定山渓温泉まで荷物をお昼 には持ってきてくれるとのこと。
 となりのカフェで一休みし、10時すぎのこちらは動いている豊平峡行きバスに乗り、10分ほどで初めて終点豊平峡温泉に着いた。いままで来なかったのが 悔やまれる鄙びた温泉やどで雪見の大露天風呂が素晴らしい。
 昼を食べ、定山渓で荷物を受け取ってバスを乗り継ぎ午後結局今日も札幌に戻り、小樽築港まで復旧したJRに乗る。定山渓も豊平峡もJRもアジアンの旅行 者多く、石狩湾は波が荒れているのを皆で写メ合戦。
 築港から路線バスで今日のやど朝里クラッセに4時前には到着。ボード一式は定山渓から倶知安に送った。明日も荒天予報でしばらく初滑りもお預けだが、定 山渓温泉やスキー場の人びとの暖かさは身にしみる。



2017年 12月25日
 季節外れの暴風雪、朝方空も見えたが札幌は雨模様。雪の少ない市内を移動して札幌国際での初滑りは明日にし、札幌駅うえのシネマで札幌が舞台の映画を観 る。ラストはなかなか。
狸小路よこの蕎麦店まるきで昼を食べ大通りに面した店でコーヒーの後バスで定山渓温泉に来て雪道を歩いて先日急に予約した宿に到着。雪見の露天がいい。夕 方雪道を食事に往復。市内と違いこちらは雪深い。
 荒天で各地で事故、JRは小樽札幌間が不通とか。明日も荒れて風雪予報。



2017年 12月24日
 早朝神戸空港からスカイマークで千歳に。12月の関西は寒かったが、こちらは今日雪は少なく気温も高め。札幌旧庁舎前のレストランでお昼の後じょうてつ バスで小金湯温泉往復。硫黄の露天が心地よい。
 札幌に戻ると5時前には日が暮れ、ススキノ交番上のさっぽろっこでナンコ鍋などいただく。市内の雪は少なめ。中島公園手前の宿に歩くと右手に鴨々川とい う川があった。明日は低気圧で雨と強風とか。これからしばらく珍道中。

 


2017年 12月23日
 年の瀬、日記がわりに。
 19日六甲台から御影山手をくだり深田池を経て阪神御影に行く。途中小学生の集団下校あり、先頭の引率は頼もしい上級生だった。
 先日ZARA HOMEのバーゲンで購入した天然木のサイドテーブル2脚が部屋に馴染み、ますます引きこもりになる予感。
 21日は今年最後、3ヶ月ぶりに北区のすずらんの湯と丹羽鶏うどん。今日は虫捕りを持った親子連れが先を行く神大を抜けてil ventでシチリアーナピザを食べ納めて、午後大丸地下で小ぶりのカワハギ見つける。このところ晴れて冷えたが今日は寒さも緩んだ。



2017年 12月17日
 今日神戸ルミナリエ最終日、ひるまハーバーランドはアンパンマン館などで子供で賑わう。日差しは暖かく海は凪。
 突堤の先の薄緑色の信号台まで行き、海沿いを戻り4時に大丸横で列に並んで冷たい風のなか5時の点灯を待つと、待つ人が多いからと予定の10分ほど前ま だ暗くならないうちに点灯。今年はひとしおの寒さだが人々の歓声は暖かい。東遊園地までぞろぞろ歩き、駅に向かう頃に夜の帳が降りた。6時過ぎに帰宅。



2017年 12月14日
 晴れて寒い日が続く午後、映画「ゴッホ(Loving Vincent)」を見に三宮に出る。
http://www.gogh-movie.jp
 映画はゴッホの描いた絵画の肖像画に描かれた人物たちが風景画のなかを動き、語るというユニークなもの。パリからアルル、サン・レミそしてオーヴェール での弟テオや画材商タンギー、郵便局長ルーランと息子アルマン、医師ガシェや娘マルグリット、宿の娘アデリーヌ・ラヴーらがゴッホの活動とその死について 油絵の中でさまざまにゴッホに対する錯綜した思いをもって語り、演じている。
 以前黒澤明のオムニバス「夢」でやはりゴッホの絵の中を人物が動く表現があったが、英国ポーランド合作のこの作品は人物も建物も風景もオリジナルに近く 描かれていてより徹底している。生前800もの絵を描きながら売れた絵は1点のみという境涯の中での彼の人生と作品を生き生きと表現する映画。観客はすご く少なかったが、見終わってしばらく席を立てない傑作だった。
 見たのは吹き替え版で画面に集中するにはよかったし、声の山田孝之やイッセー尾形らもなかなかの好演だ。
 見終えて外に出ると夕暮れどき、6時から始まるルミナリエを見るつもりで大丸横の列に並んだが点灯まで1時間ほど、土日は5時点灯なので今日は帰路に着 く。





2017年 12月13日
「数日前は保育園、今回は小学校という最もあってはならない場所で起きた。無条件で日本政府や米軍に対応してもらわないといけない」
「日本や極東の安全保障を沖縄だけが危険をもって支え続けている状況の中で、子どもたちの生命がおびやかされ続けている。いつまでこんなことをしているん だという気持ちだ。米軍も日本政府も対応できていない。対処がなければ、またいつ起きるか分からないということがはっきりした」
 宜野湾市の普天間第二小学校の視察後に翁長知事。
 保育園と小学校で繰り返される落下事故。墜落するオスブレイと部品落下が止まらない老朽ヘリ。園児や小学生など市民が暮らす市街地の上を飛び回る米軍 機・米軍ヘリの飛行停止、基地と海兵隊の県外移転、日米地位協定の見直しが早急に必要だ。まともな政府なら誰に言われずとも取り掛かるだろうが。
《13日午前、宜野湾市の普天間第二小学校のグラウンドに米軍普天間所属のCH53E大型輸送ヘリの窓が落下した事故で、現場視察を終えた翁長雄志知事は 「数日前は保育園、今回は小学校という最もあってはならない場所で起きた。無条件で日本政府や米軍に対応してもらわないといけない」と話した。
 「日本や極東の安全保障を沖縄だけが危険をもって支え続けている状況の中で、子どもたちの生命がおびやかされ続けている。いつまでこんなことをしている んだという気持ちだ。米軍も日本政府も対応できていない。対処がなければ、またいつ起きるか分からないということがはっきりした」と語った。
 宜野湾市の佐喜真淳市長は午前11時35分、同校に駆け付け、険しい表情で「絶対に許されない。言語道断だ」と憤った。》





2017年 12月11日
「私たちは、世界中でこの恐ろしい兵器の生産と実験のために被害を受けてきた人々と連帯しています。長く忘れられてきた、ムルロア、エッケル、セミパラチ ンスク、マラリンガ、ビキニなどの人々と。その土地と海を放射線により汚染され、その体を実験に供され、その文化を永遠に混乱させられた人々と。
 私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たち は、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私 たちは立ち上がったのです。私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。
 今日、私は皆さんに、この会場において、広島と長崎で非業の死を遂げた全ての人々の存在を感じていただきたいと思います。皆さんに、私たちの上に、そし て私たちのまわりに、25万人の魂の大きな固まりを感じ取っていただきたいと思います。その一人ひとりには名前がありました。一人ひとりが、誰かに愛され ていました。彼らの死を無駄にしてはなりません。
ーーーー
 世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。
 私は13歳の少女だったときに、くすぶるがれきの中に捕らえられながら、前に進み続け、光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たち の光は核兵器禁止条約です。この会場にいるすべての皆さんと、これを聞いている世界中のすべての皆さんに対して、広島の廃虚の中で私が聞いた言葉をくり返 したいと思います。「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 動き続けろ! 光が見えるだろう? そこに向かってはって行け」
 今夜、私たちがオスロの街をたいまつをともして行進するにあたり、核の恐怖の闇夜からお互いを救い出しましょう。どのような障害に直面しようとも、私た ちは動き続け、前に進み続け、この光を分かち合い続けます。この光は、この一つの尊い世界が生き続けるための私たちの情熱であり、誓いなのです。」

 10日ノーベル平和賞受賞式でのサーロー節子さんの言葉。核実験によってさまざまな被害を受けた人びとへの思いとともに13歳で被爆した広島での壮絶な 体験が核廃絶の深い願いとして静かにまた格調高く語られている。映像では国や民族、宗教を越えて会場の人びとに共感が広がっているのがわかる。しかし核保 有国の大使は欠席。核廃絶の妨げになっているのがこれらの核保有国とその核の傘の下に安住する国であることは明らか。この受賞とスピーチは地球上の何処で も二度と核兵器による惨劇を起こしてはならないという人類に向けたメッセージ。核兵器禁止条約とこの受賞が大きな転換点になることを願う。
《皆さま、この賞をベアトリスとともに、ICAN運動にかかわる類いまれなる全ての人たちを代表して受け取ることは、大変な光栄です。皆さん一人一人が、 核兵器の時代を終わらせることは可能であるし、私たちはそれを成し遂げるのだという大いなる希望を与えてくれます。
 私は、広島と長崎の原爆投下から生き延びた被爆者の一人としてお話をします。私たち被爆者は、70年以上にわたり、核兵器の完全廃絶のために努力をして きました。
 私たちは、世界中でこの恐ろしい兵器の生産と実験のために被害を受けてきた人々と連帯しています。長く忘れられてきた、ムルロア、エッケル、セミパラチ ンスク、マラリンガ、ビキニなどの人々と。その土地と海を放射線により汚染され、その体を実験に供され、その文化を永遠に混乱させられた人々と。
 私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たち は、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私 たちは立ち上がったのです。私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。
 今日、私は皆さんに、この会場において、広島と長崎で非業の死を遂げた全ての人々の存在を感じていただきたいと思います。皆さんに、私たちの上に、そし て私たちのまわりに、25万人の魂の大きな固まりを感じ取っていただきたいと思います。その一人ひとりには名前がありました。一人ひとりが、誰かに愛され ていました。彼らの死を無駄にしてはなりません。
 米国が最初の核兵器を私の暮らす広島の街に落としたとき、私は13歳でした。私はその朝のことを覚えています。8時15分、私は目をくらます青白い閃光 (せんこう)を見ました。私は、宙に浮く感じがしたのを覚えています。
 静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、私は、自分が壊れた建物の下で身動きがとれなくなっていることに気がつきました。私は死に直面していることがわかり ました。私の同級生たちが「お母さん、助けて。神様、助けてください」と、かすれる声で叫んでいるのが聞こえ始めました。
 そのとき突然、私の左肩を触る手があることに気がつきました。その人は「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 蹴り続けろ! あなたを助けてあげ るから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう? そこに向かって、なるべく早く、はって行きなさい」と言うのです。私がそこからはい出てみると、 崩壊した建物は燃えていました。その建物の中にいた私の同級生のほとんどは、生きたまま焼き殺されていきました。私の周囲全体にはひどい、想像を超えた廃 虚がありました。
 幽霊のような姿の人たちが、足を引きずりながら行列をなして歩いていきました。恐ろしいまでに傷ついた人々は、血を流し、やけどを負い、黒こげになり、 膨れあがっていました。体の一部を失った人たち。肉や皮が体から垂れ下がっている人たち。飛び出た眼球を手に持っている人たち。おなかが裂けて開き、腸が 飛び出て垂れ下がっている人たち。人体の焼ける悪臭が、そこら中に蔓延(まんえん)していました。
 このように、一発の爆弾で私が愛した街は完全に破壊されました。住民のほとんどは一般市民でしたが、彼らは燃えて灰と化し、蒸発し、黒こげの炭となりま した。その中には、私の家族や、351人の同級生もいました。
 その後、数週間、数カ月、数年にわたり、何千人もの人たちが、放射線の遅発的な影響によって、次々と不可解な形で亡くなっていきました。今日なお、放射 線は被爆者たちの命を奪っています。
 広島について思い出すとき、私の頭に最初に浮かぶのは4歳のおい、英治です。彼の小さな体は、何者か判別もできない溶けた肉の塊に変わってしまいまし た。彼はかすれた声で水を求め続けていましたが、息を引き取り、苦しみから解放されました。
 私にとって彼は、世界で今まさに核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表しています。毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべて の人を、私たちの親しむすべての物を、危機にさらしています。私たちは、この異常さをこれ以上、許していてはなりません。
 私たち被爆者は、苦しみと生き残るための真の闘いを通じて、灰の中から生き返るために、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければな らないと確信しました。くり返し、私たちは証言をしてきました。
 それにもかかわらず、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいます。彼らは、これは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプ ロパガンダを受け入れています。この神話こそが、今日まで続く悲惨な核軍備競争を導いているのです。
 9カ国は、都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。核兵器の開発 は、国家の偉大さが高まることを表すものではなく、国家が暗黒のふちへと堕落することを表しています。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です。
 今年7月7日、世界の圧倒的多数の国々が核兵器禁止条約を投票により採択したとき、私は喜びで感極まりました。かつて人類の最悪のときを目の当たりにし た私は、この日、人類の最良のときを目の当たりにしました。私たち被爆者は、72年にわたり、核兵器の禁止を待ち望んできました。これを、核兵器の終わり の始まりにしようではありませんか。
 責任ある指導者であるなら、必ずや、この条約に署名するでしょう。そして歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう。彼らの抽象的な理論は、それが 実は大量虐殺に他ならないという現実をもはや隠し通すことができません。「核抑止」なるものは、軍縮を抑止するものでしかないことはもはや明らかです。私 たちはもはや、恐怖のキノコ雲の下で生きることはしないのです。
 核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告 を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、あなたたちは行動することになることを知るでしょう。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠 かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。
 世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。
 私は13歳の少女だったときに、くすぶるがれきの中に捕らえられながら、前に進み続け、光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たち の光は核兵器禁止条約です。この会場にいるすべての皆さんと、これを聞いている世界中のすべての皆さんに対して、広島の廃虚の中で私が聞いた言葉をくり返 したいと思います。「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 動き続けろ! 光が見えるだろう? そこに向かってはって行け」
 今夜、私たちがオスロの街をたいまつをともして行進するにあたり、核の恐怖の闇夜からお互いを救い出しましょう。どのような障害に直面しようとも、私た ちは動き続け、前に進み続け、この光を分かち合い続けます。この光は、この一つの尊い世界が生き続けるための私たちの情熱であり、誓いなのです。》





2017年 12月 6日
 快晴の朝、有馬温泉南側の高台の宿から町並みの上に丸い月も見えた。朝食と朝湯の後冬の寒さの町を歩き、神戸電鉄有馬駅の横の高台に見える成田不動尊に 落ち葉で覆われた石の階段を上がるが、すでに廃寺となっていた。
 同じ道を下りて宿廣喜で立ち寄り湯に浸かり、金の湯前の蕎麦店でお昼のあと太閤橋の向かいに見つけた小さな案内板で「50メートル先」と表示された亀の 尾滝に向かうと、確かに少し先に垂直な岩場に静かに流れ落ちる小滝があり、「福徳開運、災難除け」という亀の尾不動尊という小さな社も付属。
 何か得した気分になって太閤橋横のバス停からバスで三ノ宮に戻り、そごう地下で皮剥買い午後4時には帰宅。



2017年 12月 5日
 気温低下のなか六甲ケーブルで上駅に上がり、六甲テラスを超えて縦走路を歩く。途中お弁当で昼飯。
 日差しは暖かいが、風はゲレンデ並みに冷たくパーカーのフードが役に立った。山頂下では小雪も舞う。
 六甲山頂からなだらかな魚屋道を4キロ下り、午後2時半に有馬温泉に着いた。瑞宝園前の宿で湯に浸かり金の湯前の店ありまやで夕飯。



2017年 12月 2日
 土曜は快晴。平安神宮前の宿を出て琵琶湖疏水沿いを南禅寺に歩き、天授庵などを散策。天授庵本堂前庭の紅葉は終わっているが、晩秋らしい佇まい。南禅寺 境内はまだ紅葉が残る。
 平安神宮鳥居前のうどん店で昼飯の後、昨夜見つけたカフェに入ると、そこは1979年11月ジョン・レノン夫妻がたずねてきた店だとか。翌年12月レノ ンは凶弾に倒れた。オーナー氏が夫妻が座ったカウンター席を教えてくれた。
 午後地下鉄と嵐電に乗り、有栖川で下車し久しぶりに天山の湯に入る。夕方嵐山に行くと桂川沿いは晴れ渡る夕景色。
 阪急で梅田に行き、この日出張で在阪の新宿山吹の同僚だった牛島さんと合流。lucua地下のバルチカの寿司店と茶屋町ラ・ボエームをはしごし彼の同僚 も加わって閉店まで飲食し、新大阪の宿に向かう二人と別れて阪急神戸線12時発の電車に乗るとそれが終電だった。深夜1時前帰宅。



2017年 12月 1日
 晩秋の四条に出て寺町通りの鴨川が見える店で九つのおばんざいのランチ。流石に冷え込む市中を清水寺に上がるころには俄雨で大舞台は改修中だが凄い人 出。
 二年坂から円山公園を通り平安神宮前の琵琶湖疏水沿いの宿に4時に着く。
 夕方外に出ると満月。疏水沿いのお店を探し、野菜料理のカフェで早めの夕飯。夜風は止んで寒さは緩む。


                                                                                                                                                                
  
     





























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