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2018年 8月27日
 昨夜は城崎温泉この夏最後の花火。大谷川の水面に反射して二倍になる。
 今朝温泉ふたつ梯子して但馬牛入りカレーと地ビール頂き来た道を戻る。バス乗り換えの福知山駅前は照りつける暑さ、窓から福知山城が見えた。

 

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2018年 8月26日
 今日城崎温泉灯籠流し、残暑の中三宮からバスで福知山経由jrで3時前城崎着。
 宿は柳通り沿い、御所の湯と夕方鴻の湯に浸かり、通りの店で夕食後7時灯籠流しが始まる。温泉の梯子で夏バテは収まった。



2018年 8月23日
 台風接近中。
 このところ浴室のシャワーホースが破れ水栓も摩耗、キッチンの手元灯も壊れるなど築30年による設備の劣化が顕著。熱帯雨林で注文して水栓や手元灯をDIY?DIM(マイセルフ)でどうにか交換。
 91年イタリア・スイス珍道中の写真も続きをUP。
 カプリ島でソローラ山にリフトで上がり同じような写真ばかり撮って翌日アマルフィに戻りサレルノから夜の列車に乗って南下し深夜列車のまま船でシチリア島に着く。ギリシャの植民都市だったシラクサとアグリジェントを訪ねた。

http://fukupulio.org/italy/CAPRI/1991italy7.html
http://fukupulio.org/italy/SIRACUSA/1991italy8.html
http://fukupulio.org/italy/AGRIGENTO/1991italy9.html




2018年 8月19日
 NHK“駅の子”の闘い 〜語り始めた戦争孤児〜のつづき。
「あの(空襲と敗戦の)ドサクサに会社は全部倒産してしまう。そこから吐き出す失業者は非常に多い。外地からは引揚者600万人も帰ってくる。そんなことで全くてんやわんやの状態。もうほとんど子供のことなどということは、問題にもならなかった」

 作品で指摘する昭和27年(1952年)厚生省刊行「児童」中の「児童行政の回顧と展望」=厚生次官、児童局長、児童養護課長らの座談会=での厚生官僚の言葉。
 これは戦災や戦地で親を亡くし孤立した子どもたちを放置した国の官僚たちの無責任極まる言い訳でしかない。
 「五族協和」「八紘一宇」などのスローガンを掲げ他国への植民と戦争に明け暮れて、戦時中は遺児たちを「靖国の遺児」などと持て囃し戦争遂行に利用しな がら、敗戦と同時に国民のなかで最も援助が必要な12万人を超える戦災孤児たちを見捨てる国。この12万人という数字は昭和23年厚生省の調査によるが、 沖縄は対象から除かれ養子となった子も路上にいた「浮浪児」も含まれていない。国は昭和20年9月「戦災孤児等援護対策要綱」をまとめるが、中心は親戚な ど個人家庭への保護と養子縁組の斡旋など民間任せで予算も付けず、国策として遂行した戦争の後始末を民間に丸投げした。1952年4月30日公布の「戦傷 病者戦没者遺族等援護法」はいったん廃止された「軍人恩給」を元軍人とその遺族への年金として復活させたが、空襲等による一般市民の犠牲者は原爆被害をの ぞき放置された。
http://www.zenkuren.com/aboutus_q7.html
 この無責任は大日本帝国が日本国に変わっても引き継がれ、厚生省による水俣病対策と被害者認定の杜撰な遅れ、薬害エイズの拡大そして現在の福島原発事故 による子どもたちの放射線被害の隠蔽、労働法生変更に関わるデータ偽造問題などにつながる。この国の省庁と官僚の国民不在の体質は73 年前となんら変わっていない。
 この無責任さは司法も同様で、東京大空襲による民間人犠牲者への謝罪と補償を求める裁判では地裁から最高裁(2013年)まで「戦争被害 は国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」、「被災者は数多く存在しており、どんな救済措置を講じるかについて国会には広い裁量が認められる」など として政府の無策と無責任を追認している。
 この73年前見捨てられた戦争孤児たちはもう一度この国のあり方を根底から考え直す課題を、私たちに現在も問いかけている。




2018年 8月17日
 12日このドキュメンタリーを視聴し胸が抉られる思いがした。この夏NHKは戦争、原爆などで優れた作品を放送したがこれはその中でもとりわけ見る者の心を揺さぶる。
 73年前の敗戦時親を空襲や戦場で亡くし孤児となった子供たちを「駅の子」と呼び駅の地下道などに放置したこの国の政府と大人たち。「聖戦」を遂行する と称して兵士を万歳突撃や特攻で捨て駒のように扱って敗北すると、次には親が亡くなった身寄りのない孤児たちを再び捨て駒のように捨て去って戦後が始まっ た。実名で登場したかつて「駅の子」と言われた方達の語りがこの国の「戦後」の暗黒を照らし出す。以下その書き起こし。

金子トミさん(88歳)
「ここ(上野駅地下道)で足を伸ばしてね、みんなずーっと並んだ。いっぱいです。夜になるとほとんど空いている場所はありません。ここに寄っかかってこう やって弟と妹と並んで寝てた。お母さんとおとうさんがいればと毎日想わない日はなかった。何人見たかわかりませんよ、子供の死体を。自分を守るのがいっぱ いで、(わずかな食べ物を)あげたい気持ちがね、あげられないんです。かわいそうだと思うだけで私だけじゃないでしょ、弟と妹を連れているから。亡くなる とかわいそうだなと思うだけで、自分で精一杯でした。(地下道を歩き去る大人たちは)どうかしているならこういうところ行けとか、大丈夫かとか、そんなこ とは一切無かった。そんな優しい人はいませんでした。ああまた亡くなった、何故政府はおにぎりひとつくれないのかなって、それは思いました」
 終戦直前15歳のとき山形で空襲に遭い親を亡くした。東京で仕事を探そうと幼い弟と妹を連れて上野に。一帯は一面焼け野原、住む処なく上野駅地下道に。 3ヵ月で所持金は底をつき弟と妹の預け先を必死で探し、自身は住み込みの仕事で働くことになった。三人は生き別れとなる。23歳で結婚し二人の子を育て た。
「ただ戦争で親がないというだけで他所で働いたいうだけで上野で過ごしたことだけは(亡き夫にも)言えなかったです。言わなかった。怖いという思いでね。こんな女もらったのかと思われるのがつらくて」
 80歳を過ぎてから近所で清掃のバイトを始める。戦争で親も家も失い一人路上で死んでいった子供たちがいた事実を忘れさせてはならないとの思いから、国に対して空襲の被害者に対する謝罪と賠償を求める活動に寄付するため。 
「戦争のね、大変なことはこういうことになるということを、今の若い方に知っていただければと思います。それだけです。もう戦争をしてはならない、その思いだけです」

小倉勇さん(86歳)
「(母は)用水路の中で死んでいました。顔が真っ黒になって。死体を見た時に涙は出なかった。本当に悲しい時に涙は出ないというのを僕は経験しました。" なぜお前は生まれて来たんだ。なんでわしらがお前を見なきゃならんのだ"と言われて。叩かれるよりも、物を食べさせてくれないよりも、その方がよっぽど応 えて。親戚にいじめられるほど辛いことはない。今まで兄ちゃん姉ちゃんって付き合ってた人が急に変わってくるとショックが大きいんですよ」
 昭和20年7月福井県敦賀市の空襲で親を失う。13歳で親戚の家を頼るが親戚の態度は以前と違っていた。家出をし各地を転々として大阪駅に。同じ路上生活のカメちゃん、しんちゃんと行動を共にした。お金も食べ物もなく、盗みもするように。
「いいと思ってやってないんですよ。そうしないと生きられなかった。生きられない人はみんな死んだ。飢え死にして」
 ある夜強烈な頭痛がして呻いているとカメちゃんが「大丈夫かい」と夜通し背中をさすってくれた。病院に行くあてもなく片方の目を失明。全国を放浪し昭和 22年上野に。戦後「復興」の兆しに「駅の子」たちはより孤立を深めており、この年の秋カメちゃんがふさぎ込むようになり、ある夜列車に飛び込んで自殺す る。
「右目が見えなくなった時もカメちゃんは本当に今でも忘れない、一生懸命背中をさすって。それがもう山手線で飛び込み自殺して、、、泣き言だけでは済まさ れない、憤りと悲しみと怒りや。(戦災孤児は)なんで自分だけかって孤独になるんですよ。その時に自殺するんですよ。僕は何回も経験してるけど、なぜ僕だ けがって。カメちゃんもそうだったかもしれない。本当に優しい子だった。(大人たちは)じろーっと見て話をする人もいないじゃないですか。寄っても来ない し。国が負けたらそういうことになるだろうけど、そんなの大人の責任ですよ。戦争をしたのは大人の責任だ。僕はその時に思った。これから徹底的に社会に逆 らって生きてやるって。なんで僕たちばっかりこんなにさせて、なんの罪があるんだ」
 上野を離れ全国を転々とする。両眼が見えなくなる。昭和22年11月児童福祉法が制定され、昭和23年京都駅で保護されて個人による一時保護施設「伏見寮」に入る。指導員黒羽順教さんは銭湯で疥癬だらけの背中を洗ってくれた。
「その時に真面目にならんといかんと思った。背中触ってくれる人なんかいなかったじゃないですか。こんな僕を洗ってくれた」
 盲学校に進学しマッサージ師となり結婚し家庭を持つ。
「みんな飢えていて、なんに飢えていたかというと、食べ物に植えていた、着るものもなかった、寒かったし、だけど本当に欲しかったのはぬくもりです」
 今年7月敦賀の母の墓前で
「僕のことを本当に考えてくれていたのはお袋だと思いますよ。子供達にはお母さんのぬくもりが一番大切なんですよ」
 戦災孤児の語り部を始めて
「どうかみなさん、今でも不幸な子どもたちがいるんですよ。その時にはね、なんでもいいから声でもいいからかけてあげてほしい。私はそれだけはお願いしてお話を終わらせていただきます」

山田清一郎さん(83歳)
「駅の待合室に私たちが入っていると"出て行け"と追っ払われる。蹴飛ばされる。店へ行って何か(色もとを)拾ってこようとすると、水をかけられたり、お 客さんからもらった棒を持って店の人に、"野良犬だ"ってわけで、このやろうなんて追いかけられる。そういうことが多かった。人間が人間にやることじゃな いよね。浮浪児であったとしてもね。まさに本当に野良犬に対するのと同じだよね。今考えるとよくあんなことができたのかって。なぜ浮浪児になったのか知っ ているはずなんだよね」
 昭和20年神戸空襲で親を亡くす。三宮駅そして上野駅で路上生活。昭和21年春GHQが日本政府に浮浪児対策を求め、「浮浪児が1週間で東京からいなく なるように」と指示。その後各地で子供の一斉収容=「狩り込み」が始まる。収容施設は少なく食料も不足。体罰やオリも。山田さんは駅で「狩り込み」に遭い 施設へ送られる。
「そこから通い始めた学校では孤児だけを集めた教室が用意され、黒板に"犬小屋・浮浪児・ばい菌"とかって書かれてあったね。ここが犬小屋かって一番腹が 立ったのは教師だよね。なぜこれを消さないのか、来ることがわかっているのにね。教師がもう少し僕たちのことを考えてくれればね。物がなくなるとお前が やったんじゃないか、壊れるとお前がやったんじゃないかとか必ず僕たちのところにまず最初に言われたもんね」
 しかしどんなに辛くても学校を休むことはなかった。
「一度開いたもんを絶対に自分たちで閉じないっていうね、ここで行かなかったらそれ見たことかっていうね、それが一番アレだったよね。だから絶対学校は何としても、泣いても喧嘩に負けても学校には行くっていう」
 夜間大学を出て中学の先生になった。生徒思いのいい先生と言われるが、当時の社会からの仕打ちは忘れられない。
「よく身にしみたね、人の冷たさというかね、本当に優しかったらあの孤児たちが、浮浪児がいたらそこで何か周りで温かい手を差し出している筈なんだよね。日本人というか人間は案外そういう冷たさを持っているんじゃないかなと思うけどね」

 当時の政府はいったいどう対応したのか。(つづく)

《親を空襲で亡くしたり、親と離れ離れになったりして生まれた戦争孤児、その数は12万人にも及ぶ。孤児が駅で寝泊まりする姿は全国で目撃され「駅の子」とも呼ばれたが、子どもたちに何があったのか、その実態はよくわかっていない。
NHKでは、この3年間、孤児への聞き取りや、資料発掘を進めてきた。




2018年 8月17日
 日記がわりに。先週末カメラ修理に梅田阪急9階に初めて行く。その前にバストーニュでジェノベーゼとガード下のカフェでコーヒー。阪急9階はほとんどキッズランド、良さげな(値段も)エスプレッソメーカーもあった。
 月曜はアシスト車で六甲川沿いを下りコーナンで小さなベゴニアなど買う。少しだけ涼しい堰堤で幼児たちが遊んでいた。
 今日は晴れて気温も低下。8月初めてクアハウスの温泉に浸かり北野に上がり吉家で豚しゃぶうどんをいただいてスタデニック亭の庭を覗くとカフェが一応営業していてアイスコーヒー。ルパンでバゲット買うと、なんかここの朝食パンは日本一とかの表示あり。
 帰路六甲道の灘区役所に寄り食材も買って帰宅。夕方HMVに注文していたコルトレーンのバラード集が届く。彼は1966年演奏のために訪れた長崎でまず平和公園に行き平和祈念像に献花した。翌年死去。

   


2018年 8月14日
「燃やした公文書は、戦友たちの命の集積。戦争の真実を正確に伝えられなければ、海に沈んだ仲間たちが浮かばれない」西崎信夫さん

 73年前の夏、乗員数百人の部隊遍歴など軍公文書の焼却を命じられ京都宮津湾で焼却した駆逐艦「雪風」の乗組員だった当時18歳の少年。
 戦没者310万人のうち海外戦没者240万人、そのうち遺骨が送還されたのは現在も約半数(128万人)のみ。
https://www.mhlw.go.jp/…/hok…/senbotsusha/seido01/index.html
 
 戦争中戦死した兵士の家族に渡された骨壷に入っていた多くは骨ではなく石ころだったが、遺体を放置しただけではなく彼らが生きた証としての公文書、資料すら焼却した当時の軍と政府。戦死者の遺体も記録も投げうってこの国の「戦後」は始まった。
 
 
《1945年夏、日本海に面した京都・宮津湾近く。油まみれの軍服を着た一人の少年が風呂敷を担いで歩いていた。人目に付かない丘まで来ると、穴を掘って書類を投げ入れた。そして、マッチで火を放った。

 パチパチ、パチパチ。書類は音を立てて燃え、熱気が顔に迫った。「お前はまだ軍に協力しているのか」。少年は、戦友の声を聞いた気がした。ーーーー




2018年 8月14日
「みんな死んでしもうて」「戦争の夢を見て寝られんかった」
「おやじは村人への責任を痛いほど感じていた。だから文書を焼くことはできなかったんでしょう」「残された資料が、『二度と戦争しちゃいかん』というおやじの気持ちを、伝えてくれると思っています」

 終戦まで滋賀県大郷村の兵事係として15年間徴兵検査や召集令状、戦死報告に関わり、終戦時の焼却命令に背いて密かに資料を保管し続けた男性とその子息 の言葉。同村では1894年日清戦争から1945年までの51年間に272人が戦死。その73年後の現在まで、この国では一人の戦死者も出てはいない。
 記録し記憶し続けることが過去の歴史で犠牲となった人びとへの最低限の責任であることが伝わる記事。他方で軍司令部と中央官庁は戦犯追求を恐れて膨大な公文書を焼却隠滅。その無責任の伝統は現代の政権や官庁に引き継がれている。

《73年前の敗戦時、陸海軍や内務、外務、大蔵各省など日本のあらゆる組織が、機密性のある公文書焼却に血眼になった。軍は警察を通じて全国の役場にも焼却を命じた。だが、命令に背いた人もいた。

 「うちに資料がある」。滋賀県長浜市の浅井歴史民俗資料館に、100歳を超えた西邑仁平(にしむらにへい)さんから、そんな話が持ち込まれたのは2006年の夏。倉庫2階には、茶色の薄紙で包まれ、縄で縛られた束が積まれていた。ーーーー




2018年 8月10日
 昨日亡くなった翁長沖縄県知事の昨年末のBuzzFeed News単独取材の言葉を伝えるKota Hatachi氏の記事より。
 昨年6月23日の沖縄戦没者追悼式での献花する安倍首相を見詰める時の思い、米軍基地の70.6%が集中し繰り返される米軍機事故への日本政府の「負担 軽減」「誠心誠意」「再発防止」との儀礼的で虚ろな対応への不信、米軍統治時代より激しさを増した沖縄に対する差別とバッシングへの憤りと将来世代に禍根 を残さぬ沖縄の東アジアの平和の架け橋としてのあり方への希望が語られている。
 15世紀ヨーロッパからもLequio Maior=「大琉球」と呼ばれた琉球王国は東アジアにおける地域間海上交流の中心として繁栄した。五代王尚泰久(位1453^60)は交易による繁栄を 願い万国津梁の鐘を製作。幕末の1853年5月アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは浦賀に先駆けて那覇港に寄港し首里城に入り開港を要求、翌年琉米修好 条約を締結している。
 外国軍隊への過剰な基地負担ではなく、交流と通商の架け橋としての沖縄の本来のあり方がわたしたちに問いかけられている。

「じっと安倍さんのことを見ながら、沖縄戦で亡くなった人たちのこと、将来の沖縄の子や孫のことを考えていたんですよ。このままではいかんな、と。私からすると、安倍さんを見る目は厳しいものにならざるを得ないのです」
「政府と話し合いを続けても、どうにも相容れない。沖縄の現状に同情の言葉もなく、ただただ基地問題について『粛々と解決していく』と言うばかり。その人が、平和祈念公園にきて、また同じようなことを言っていたのですから。厳しい目で見ざるを得なかった」
「安倍政権は『戦後レジームからの脱却』『日本を取り戻す』というが、現実的にはアメリカの傘の中で生きていく道を選んでいる。むしろ『戦後レジームの完成』を目指しているのではないでしょうか」
「そういった状況下で、沖縄は日本の安全保障において大きな役割を果たしている。私は日米安保体制を認める立場にいるが、『沖縄だけ我慢してくれ』ではなく、日本全体でこの負担について考えてもらいたい」
「沖縄は日本政府と米軍という2つの大きな権力に挟まれ、歴史的にも自己決定権や平等権がない立場にある。7割の米軍基地についても、本土で引き受けるこ とも、日本全体でその問題を考えることもない。繰り返される問題に対して文句を言っても、『基地で食べているから置いておけばいい』『我慢して』と言われ てしまう」
「沖縄は日本国の一員として、アジアと日本の架け橋になろうと、将来の可能性を信じて動いている。それなのに、政府は力で押し付けてくる。今のようないじめ方をするこの国の未来は、ないのではないかと思ってしまうんですよ」
「日本に行くにはパスポートが必要で、ある意味で日本人ではないような扱いを受けていたのです。僕は法政大学に通っていたのですが、東京でのアパート探しで『琉球人お断り』という差別を経験しています」
「いまの日本の安全保障では、多くの米軍基地を担っている沖縄が大きな役割を果たしていると言えます。しかし、僕らがそれについて文句を言うと、『お前ら中国のスパイか』などの言葉を投げられる。バッシングや、冷たい言葉も」
「目の前に落ちたものを『自作自演』というなんて、今までにはない社会現象でしょう。これだけのバッシングを受けたことは、ありませんでした。沖縄の人たちが、心の底に持っている思いを言えないような状況になってしまった」
「バッシングを受けたりするのが嫌だから、基地に関して、心の声を出せないのです。特に経済界などは常に緊張感に溢れています。私ですら、言いたいことが言えないこともある」
「こうした一方的な『いじめ』は、たとえば福島の原発事故でも、宮崎の鳥インフルエンザなどでも起きている。沖縄でも起きる背景には、歴史的な意味合いと基地問題があることが大きい」
「沖縄は137年前の琉球処分で日本になったばかりです。併合され、地上戦で焼け野原にされ、さらに米軍基地を押し付けられた」
「それでも、『沖縄ヘイト』と言われるここまでのバッシングは、これまでになかった。こうした状況が続くことに恐ろしさ、危なさを感じます」
「『沖縄は基地で食べているんでしょう、だから置いておけば良い」という上から目線の物言いをどう払拭するかは課題でした」
「『基地で食べている』ということに反論するために使ったのがこの言葉(米軍基地は経済発展の最大の阻害要因」)です。数年を経て、ようやく一般の人たちにも広がってきたと感じています」
「こういう言葉を聞いた人が、経済的依存について、『どっちが嘘なの?』と考えてもらうことにこそ、意味がある。たった1行の言葉だけで、沖縄が変わっていくことになる。だから、どんどんと使っているのです」
「沖縄の現状を理解する方々も出てきている。ただ、そうでもない人たちの無関心や上から目線はいまだに多くある。それを払拭しないといけない」
「どのようにさらなる理解を得ていくのか。沖縄が自らが、頑張って発信していくしかない。理想論かもしれませんが、5年、10年経てば、この状況は落ち着くのではないかと考えているんです」
「若い人たちは、圧政的だった米軍統治下も知らない。また、経済的にもある程度生きていけるという状況に生まれている。『なぜ基地があるのか』と考える機会も、だんだんと薄れているのでしょう」
「負の遺産を背負わないで、沖縄がこれから発展をしていく、世代交代の時なのかもしれません。だからこそ、基地問題は僕らが解決しないといけない」
「沖縄は日本国民の一員であるだけではなく、台湾はお隣で、中国とは600年の付き合いがある。みんなと仲良くしていかないといけない。だからこそ、架け橋になることもできる」
「そうして、アジアの様々な国の人が行き来をできるような沖縄になれば良い。どこかの国が戦争をしようとしても、自国民がいるから戦争できない、というような。平和の緩衝地帯、そんな場所にできたら良いと考えているのです」
「どうやって沖縄の現状を、若い世代を含む日本国民全体に理解してもらえるのか、考えています。沖縄だけで発信しても、限界はあるかもしれない。それでも、僕らの世代がいなくなったら、こういうことをできる人たちはいなくなる」
「これからも困難は多いが、ピエロになってでも、やっていくしかありません。問題意識を持って、『誇りある豊かさを』と訴えていく。こうした“心”は、今の若い人たちにも、残せるのではないかと思っているんです」




2018年 8月 9日
〈ここ長崎を訪問できましたことは、私自身にとっても大変な喜びです。5世紀近くにわたり、私の国、ポルトガルは、この街と深い政治的、文化的、宗教的なつながりがあります〉
〈広島と長崎の原爆を生き延びた被爆者の方々は、ここ日本のみならず、世界中で、平和と軍縮の指導者となってきました。彼らが体現しているのは、破壊された都市ではなく、彼らが築こうとしている平和な世界です〉
〈悲しいことに、被爆から73年経った今も、私たちは核戦争の恐怖とともに生きています。ここ日本を含め何百万人もの人々が、想像もできない殺戮(さつりく)の恐怖の影の下で生きています〉
〈長崎と広島から、私たちは、日々平和を第一に考え、紛争の予防と解決、和解と対話に努力し、そして紛争と暴力の根源に取り組む必要性を、いま一度思い出そうではありませんか〉
〈私たちみんなで、この長崎を核兵器による惨害で苦しんだ地球最後の場所にするよう決意しましょう〉

 かつてこの国の「南蛮貿易」の相手国の一つだったポルトガル出身の国連事務総長グテーレス氏の9日長崎平和祈念式典での言葉。
 「長崎を原爆の惨害で苦しんだ地球最後の場所にしよう」は被爆者の「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」につながる。その願いが結実し採択された核兵器禁止条 約の意義と米ロなど核保有国による核戦力「近代化」と禁止条約への敵対行動などによる条約発効への大きな課題も見据えながら、被爆地長崎で核廃絶への決意 を呼びかけた。それに比してこの長崎の地でも核兵器廃絶への決意表明も核保有国への核軍縮の呼びかけも核兵器禁止条約への言及もない日本国の首相は一体ど この国の首相なのか。

《本日、この平和式典において、ご参列の皆様とともに、1945年8月9日に、ここ長崎で原子爆弾の攻撃で亡くなられたすべての方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げられることを光栄に思います。

 今日ここにご参列の皆様、ならびに原爆のすべての犠牲者と生存者の皆様に対し、最も深い尊敬の念を表明します。
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2018年 8月 8日
 翁長雄志沖縄県知事の早すぎる死。
 全国の米軍基地の73%を押し付けられた沖縄の市民の命と暮らしを守るため奮闘する知事だった。辺野古新基地埋め立て承認撤回を先月27日表明。職務代 理となった謝花副知事に沖縄防衛局への聴聞と承認撤回の手続きを貫徹してもらいたい。それが翁長知事の遺志を継ぐことになる。

《沖縄県知事の翁長雄志氏が8日午後7時までに、膵臓(すいぞう)がんのため入院中の浦添総合病院で死去したことが分かった。67歳だった。米軍普天間飛 行場の返還に伴う名護市辺野古への新基地建設への反対を訴え、2014年の県知事選で初当選。新基地建設反対を最後まで貫いた。--------
 




2018年 8月 7日
 猛烈な日差しと暑さのなかこの夏二度目の須磨海岸。海の家のテラスでとんこつラーメンとビール、裏手のカフェでコーヒーを頂き、意を決してビーチに出た。
 水温は適度に冷たく、日光浴とナトリウム冷泉浴?を繰り返す。隣にインド人の若者たちがいて海水浴を楽しんでいたが、「これ何ですか?」と4~5センチの透明なブヨブヨした物を持ってきた。「クラゲの子供ではないかな」と答えるが果たして正解だったか。
 2時間程いて帰路につくと、自律神経か何かがリセットされたのか夏バテは消えて暑さも苦にならなくなった。六甲道のスーパーで久しぶりに兵庫但馬のコウノトリ米など買って帰宅。空気が澄んで対岸も見渡せる。




2018年 8月 6日〈今、私たちは、強く平和を願います。
平和とは、自然に笑顔になれること。
平和とは、人も自分も幸せであること。
平和とは、夢や希望をもてる未来があること。
苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。
その平和への思いをつないでいく私たち。〉

 広島の小学6年生の平和への誓いの言葉。沖縄慰霊の日の中学3年生の平和の詩の言葉とともに、この国の政治家らが語るどんな言葉より物事の本質を見事に捉えている。

〈人間は、美しいものをつくることができます。

人々を助け、笑顔にすることができます。

しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。

原子爆弾の投下によって、街は焼け、たくさんの命が奪われました。

「助けて」と、泣き叫びながら倒れている子ども。

「うちの息子はどこ」と、捜し続けるお父さんやお母さん。

「骨をもいでください」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉が無い姿でした。

広島は、赤と黒だけの世界になったのです。

73年が経ち、私たちに残されたのは、

血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。

そして今もなお、遺骨の無いお墓の前で静かに手を合わせる人。

広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、

今、私たちは、強く平和を願います。

平和とは、自然に笑顔になれること。

平和とは、人も自分も幸せであること。

平和とは、夢や希望をもてる未来があること。

苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。

その平和への思いをつないでいく私たち。

平和をつくることは、難しいことではありません。

私たちは無力ではないのです。

平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。

73年前の事実を、被爆者の思いを、

私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

平成30年(2018年)8月6日

こども代表

広島市立牛田小学校6年 新開美織(みおり)

広島市立五日市東小学校6年 米広優陽(ゆうひ)  〉




2018年 8月 6日
「草木も生えないと言われた被爆75年をあと2年後に控え、私たちは今大きな波にさらされています。
 一筋の光明は、広島と長崎で我々がくぐり抜けた筆舌に尽くし難い非人道的な経験が、本当は口にしたくもない被爆者の長年にわたる証言によって多くの国に共有され、核兵器の非人道性に軸足を置いた核兵器禁止条約が国際的に合意されたことです。
 他方、世界では各地で国際的緊張が高まり、核兵器国は競って核兵器の更新や能力向上、さらには「使える核兵器」の開発にまで進もうとしています。これは、いまだに核兵器国を中心とする国々が、核抑止力による力の均衡を信じているからです。」

 原爆投下から73年目の日。この1年で亡くなった広島の被爆者5359人の方の名が新たに原爆慰霊碑に加わり、被爆者手帳を保持する人は15万4859人で過去最少となり、戦中・戦後を生きた人々も次つぎとこの世をさっていく。
 「核兵器の近代化」を唱えて核兵器禁止条約やNPTの核削減義務に背を向ける米国やロシアなどの指導者と彼らにおもねり「核の傘」による庇護を受けて恥じない、核兵器禁止条約にも反対した唯一の戦争被爆国の指導者。
 「あなたはどこの国の総理ですか」と昨年被爆者に言われた何処かの国の首相は今年も平和記念式典で「核保有国と非保有国の橋渡し」「国際社会の取り組み を主導」などと誰かが作った空疎な言葉の羅列を朗読。それに対して被爆地広島市長による平和宣言は「核抑止力」の欺瞞と虚妄と愚劣さを端的に言い尽くす。

〈では、核抑止力の本質は何か。簡単に子供に説明するとすれば、このようなものではないでしょうか。
 「いいかい、うちとお隣さんは仲が悪いけど、もし何かあれば、お隣のご一家全員を家ごと吹き飛ばす爆弾が仕掛けてあって、そのボタンはいつでも押せるよ うになってるし、お隣さんもうちを吹き飛ばす爆弾を仕掛けてある。一家全滅はお互い、いやだろ。だからお隣さんはうちに手を出すことはしないし、うちもお 隣に失礼はしない。決して大げんかにはならないんだ。爆弾は多分誤作動しないし、誤ってボタンを押すこともないと思う。だからお前は安心して暮らしていれ ばいいんだよ」
 一体どれだけの大人が本気で子供たちにこのような説明をできるというのでしょうか。〉




2018年 8月 4日
 今日神戸港花火、夕方家を出るとうだる暑さ。阪急もいつもより混んで浴衣姿のひとも多い。そごう地下で寿司弁、いかりでビールを買って一号埠頭に行く。去年まで原っぱだったところはビル建設でフェンス、突堤の先端で弁当食べながら打ち上げを待つ。それにしても暑い。
 7時半打ち上げが始まり花火の光と音と周りの歓声でしばし暑さを忘れた。早めに帰路につき三宮の駅方向に歩くと沿道でも鑑賞する人たちが多い。駅周辺も熱帯夜だったが、9時に帰宅すると六甲川沿いは涼しい。



2018年 8月 4日
〈記憶に忠実である限り、客観的に誤っていたとしても虚偽の陳述に当たらない〉 与党筆頭理事 菅原一秀議員(自民党)

 すでに部下から説明を受けていた森友問題を知ったのも、首相夫人が名誉校長であることを知ったのも「新聞報道による」という国会証人喚問における明らか な虚偽発言をこの筆頭理事の珍妙な理屈で「記憶」を持ち出せば偽証の告発はできないことになる。与党は国会が官僚や大臣の事実に反する説明と公文書偽造に よって1年に渡り空転したことを何ら是正するつもりはないということ。党総裁でかつ首相であるものを庇うために嘘とでたらめで押し通した官僚を庇いだてす る与党自民党。この国の衰退が止まらない。

《自民、公明の与党は3日、森友学園問題をめぐる証人喚問で虚偽の証言をしたとして財務省の佐川宣寿・元理財局長を偽証罪で告発するよう求めていた野党に対し、賛同できないとの考えを伝えた。--------




2018年 8月 2日
「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」15年2月25日の加計氏との面会で安倍首相(愛媛県文書)→「自宅に帰っている。官邸でも自宅でも記者が出入 りする人の名前を逐一確認している。動静にも載っておらず、自宅も含めて会っていない」5月23日衆院厚生労働委員会 安倍首相
「もう集中審議は勘弁してくれ」6月20日夜河村建夫衆院予算委員長に安倍首相がステーキ店で→翌日河村氏が記者団への報告を撤回
「(6月23日に首相と)直接お会いして話をさせていただいた」24日の記者会見で岸田文雄政調会長→「会ったことはない」25日菅官房長官
「(7月25日)首相は不在。公邸を見学させてもらった。会っていない」自民党山口県連 友田有幹事長→「自民亭のことでたたかれたから、表に出したくないんでしょう」県議の一人

 誰と会ったか、どういう発言をしたか都合の悪いことは平然と嘘をつき続ける首相と官邸。国会でこの1年余り繰り返された「会っていない」「記録もない」との官僚や大臣ら政権に関わるものの言葉が悉く信用できない時、国民は何を信じればいいのか。
 7月5日西日本で10万人を超える人々に避難指示が出ている大雨のなか首相ら政権幹部による「赤坂自民亭」の醜態にも関わらず、「いかなる事態にも対応 できる万全の態勢で当たってきた」(17日参院内閣委)と強弁するごまかしの姿勢。虚言癖が災害対策や危機管理など国政全般に及んでいる。この国のために はもはや一刻も早い退陣しかない。

《安倍晋三首相と面会した事実が伏せられたり、首相官邸が否定したりする事態が相次いでいる。面会中に首相が語ったとされる発言が、後で否定されることもある。「あったことをないことに」する姿勢は、政治不信を招きかねない。------------





 
















                                                                                                                                                                
  
     





























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