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2018年 9月28日
 日記がわりに。雨続きの9月でようやく朝から晴れ、ひと月ぶりにハーバーランドに出る。金曜昼のumieフードコーナーはやや空いていて学生らも利用。モザイク裏手のフリーテラスでコーヒー、ドック側に出ると海も空も「半分」ではなく全部青い。
 ドックを回ると小学生の遠足と幼稚園児の遠足がすれ違っていた。メリケン波止場から三ノ宮まで歩きそごう地下でイワシの寿司などかって帰宅。
 先日大丸手前の雑貨店で購入した犬の絵の子椅子に続き今日はumieで見かけたネコ?の敷物も購入。玄関に置く。
 明日から土日は台風24号で大荒れの予報。今年は大雨と台風が多い。
 


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2018年 9月18日
 朝宿の二つの湯に浸かり、加賀と能登産の食材で作られた美味しい朝食を頂いて送迎バスに乗り加賀温泉駅から大阪にjrサンダーバードで戻る。昼は駅売店で急いで買ったおにぎり二個と金沢地ビール。こちらも天気は晴れ。


 


2018 9月17日 
 連休金沢3日目、朝浅野川の川辺と東茶屋町を歩くとまだどの店も開いておらず静か。上空に鷹が舞う浅野川大橋の向こうにモーニングを出すカフェがあり軽い朝食。
 宿を出て東茶屋町を散策、安政年間に飢饉への対策を求めて処刑された7人の町人を祀る寿経寺を訪ね宇多須神社では忍者発見。地ビールと早めのお昼、錫のお猪口と古本の絵本を買って駅に戻る。
 金沢からjrで加賀温泉駅に行き宿の送迎で4時過ぎ山代温泉到着。初めての宿森の栖は緑豊かで自分には似合わない豪華さ。湯に浸かり熱い故総湯にも入り、近くの亀寿司に行くと月曜定休。開いている店でヒレカツ定食を食べ宿に戻る。天気は回復、日差しは暑い。



2018年 9月16日
 連休二日目天候回復、日差しは暑い。金沢駅北の宿を出てバスで香林坊に行き武家屋敷を散策。足軽資料館も見て昼をぶどう屋で食べ、21世紀美術館。大きな銀のシャボン玉のようなオブジェがあった。
 荷物をロッカーに入れて城址公園で大学ジャズ部のライブを聴き、道の向こうの市役所前広場からプロの演奏のような音が聞こえるので行ってみると、なんと高校生たちのバンドだった。高校生凄い。   
  兼六園下から湯涌温泉行きバスで途中の七曲り温泉の曲水苑に向かうが、ドライバー氏によると2年前に閉館したとか!木の内風呂も岩の露天もいい温泉だったのだが。
 終点まで行き湯涌温泉総湯に浸かりUターン。兼六園横の店で地ビール、21世紀美術館で荷物を出す。不思議なプールが海外からの観光客に人気だった。片 町の店で50分待ちでノドグロの炭火焼きを食べ、東茶屋町の初めての宿に夜道に迷いどうにか着いた。明日も雨ではなく曇り予報。



2018年 9月15日
 5年ぶりに梅田からサンダーバードでジャズストリートが始まった金沢に。
駅北の宿に荷を預け駅上階の店で蕎麦の軽い昼食後中尾神社から香林坊まで歩き、路上ライブのゆるやかな音がするなかテラスのある葡萄屋で降りしきる雨が止むのを待ちながらコーヒー。結局雨は激しくなり21世紀美術館前からタクシーで兼六園近くの温泉の銭湯に行く。
近くで降りたが道に迷い通り掛りの人に教えてもらい、途中まで案内していただき到着。折り畳み傘は役に立たずズボンはびしょ濡れ。しかし5年ぶりの兼六温泉は街中の銭湯とは思えない露天が雨のなかでも心地よい。
兼六園横の店で地ビールのあと駅近くの高崎屋で久しぶりの夕食。白えびのほか鰯の造りも凄く美味しく、最後に何の魚か知らないままがんげの握りを一貫食す。至極美味、聞けばブリの子とか。
小降りのなか駅北の宿に戻る。



2018年 9月 8日
 雨のなか父の四十九日を立花氏の菩提福厳寺で近親者で行う。葬儀でお世話になった若住職氏は足の怪我も回復、小さな娘さんが荷物運びを手伝ってくれた。屋根瓦と甍は近年修繕したが、寺の内部は歴史を感じさせる佇まい。
 祭壇の前に大根と人参、ごぼう、お稲荷などが備えられ、参列者に式の後ふるまわれることもあるとのことだが、今日は最寄りの店で昼食会。
 40数年ぶりに会えた10歳年上の父方の従姉妹は祖父母が満州事変後満鉄を辞めて帰国したが父親が満州国官僚だったために彼の地に残り、母親が胸を患っ たために祖母が一時幼い従姉妹を預かって柳川に戻ったのち終戦となり、父親はソ連軍に捕まって行方不明となり母親は病死するという幼少期をもつ。今日も従 姉妹二人とその娘さんも参列した母方の三姉妹の唯一の兄だった叔父はインパール作戦に従軍して辛くも生き残ったが、レイテ島で戦死(餓死)し、帰ってきた 白木の箱には石しか入っていなかった。
 従姉妹は「祖父母にもあなたのお父さんたちにもほんとうにお世話になりました。祖父母は早く決断して満州から日本に戻った。あの時日本がもっと早く敗戦を受け入れていれば多くの人は死なずに済んだはず」と述べていた。
 そう、かりに終戦が1年早ければ戦地での兵士のおびただしい戦病死も東京など各地の空襲と沖縄戦の犠牲者もそして広島長崎の犠牲者も出なかった。それは 相手国の被害にも同様で、さらに日本だけでなく戦後の世界のあり方さえ変えていただろう。権力を握るものたちが必要な差し迫った決断ができないという宿痾 は今もこの国で連綿と続いている。
 私と同世代の福厳寺住職も参加し、北海道地震での全戸停電という電力供給システムの脆弱さにも関わる問題として、九電が自然エネルギー新会社からの電力 購買・送電線使用を拒み、危うい原発再稼働を進めている理不尽さ、国鉄民営化で九州でも不採算路線が次々に廃止されて新幹線開通でさらに在来線が減らされ ている現状そして某国の首相がお友達の大学を優遇しながら知らぬ存ぜぬを通すことで官僚らがその真似を始めていることなど、歯に衣着せぬ痛快なお話に随分 心を強くした。
 雨のなか西鉄柳川から天神に戻り、福岡から新幹線で神戸に帰る。



2018年 9月 7日
 天神から西鉄で柳川に向かう途中激しい雨。柳川で多くの乗客が降りた。
 昼を食べてどんこ舟乗り場横のカフェでコーヒーのあと久しぶりの川下りも途中激しい雨。
 しかし静かな水面と景色、船頭氏の狭い橋の下をくぐる技と語りの妙と歌声で御花の降り場まで1時間ほどの船旅は悪くない。
 かんぽの宿で早めの夕食。雨はやんだが明日は終日雨模様。

 



2018年 9月6日
 日記がわりに。
 北海道の地震に気を取られながら台風で閉鎖した関空からの便を新幹線に変え父の四十九日の帰省の途中福岡へ。
 昔は市電だったがとうに廃線になり、代わりの地下鉄で市西部の室見に行き、1〜2年と3年に在籍した室見小と東隣の道を跨いで運動場のあった高取小を50数年ぶりに訪ねる。
 大規模化したのか記憶より学校は大きく、よくハゼ釣りをした室見川もメダカを見た学校横の小川ももっと小さかった記憶。変貌した町の通りを西新商店街まで歩く。
 夕方天神の宿にどうにか着く。天神はさまざまな店と神戸にはないアップルストアとフライングタイガーもあり、雨のなか探した和食の店で九州地元の魚と酒で夕食。
 コーヒーでもと街を歩くと廃校になった小学校でスタンドアップカフェを見つけて入る。名称は地名から「大名小学校」。都心は少子化。結局小学校巡りの一日となった。夜は流石に涼しい。




2018年 9月 1日
「1万8000余りのうちかなりの命が救われただけでなく、福島の原発事故も起きなかったと思います」5月9日東京地裁 地震学者、原子力規制委員会初代委員長代理 島崎邦彦氏証言

〈島崎氏らのグループは2002年6月、「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」を取りまとめ、三陸沖から房総沖のどこでも巨大な津波を伴う地震が発生する可能性がある、と指摘した。その予想震源域は、東日本大震災の震源域に重なる。
その報告書は翌7月、親会議の地震調査委員会で承認、決定された。ここまでは何も問題は起きていない。おかしなことが起きたのは、その後だったという。
「(報告書などは)内容が決まると早ければ同じ週か、翌週には発表されていた。ところが、あのときは2週間経っても発表されなかったんですね」
すると、7月26日になって、地震本部事務局の担当者から島崎氏にメールが転送されてきた。元の発信者は内閣府の防災担当者。福島沖などで地震が起きる保証はない、として報告書を批判し、発表の先送りか、前書きに一文を追加するか、どちらかを選ぶよう求めていた。
ーーー
「修正要求の理由ですか? 省庁間のあつれき、縄張り……。最初はそんな理由だろうと思っていたんです。でも後でよく読むと、明らかに、福島に影響を及ぼ す津波地震がターゲットになっている。結局、前書きに(あの文章は)追加されました。本文は一つも変えていませんが……。いま思うと、事務局は頑張ったん だろうと思います。圧力に対し一定のところで踏ん張った、と。だって、2011年の第2版に至っては(後に明らかになったように)電力会社に見せて(その 要求を事務局が受け入れて内容を)直したんですから」〉
〈政府に「中央防災会議」という組織がある。会長は内閣総理大臣。防災行政の総本山で、関係閣僚らが委員を務める。ここに2003年7月、「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会」が設置され、島崎氏もメンバーになった。
専門家が集まり、大地震の発生可能性を見極める場である。島崎氏は当然、判断のモノサシとして、長期評価が採用されると考えていたが、実態は違った。
「長期評価が想定している震源域は、太平洋にある日本海溝です。太平洋プレートが日本に向かって沈み込んでいく場所で、その構造は三陸沖から房総沖まで同じ。だから、三陸沖から房総沖のどこでも大きな地震が起きる可能性があるんです」
「1896年には巨大津波を伴う明治三陸地震があった。地震学の常識からすれば、次に起こる地震の震源域は、その南側、まだ地震が起きていないエリアで す。400年間も大きな地震が起きていない福島沖は『本来起きるはずのものが起きていない』わけで、『そろそろ起きてもおかしくない』という意味です。だ けど、中央防災会議は『科学的に考えたら南が気になるけど気にしなくていい』という結論にした。もう、むちゃくちゃです」
結局、中央防災会議の専門調査会は2005年、過去に巨大地震や津波の記録がなかった福島沖については、今後も大きな地震は起きないとして検討対象から外した。〉
〈島崎氏によると、東日本大震災の犠牲者の8割近くは、岩手県の陸前高田市より南側で津波に遭遇している。これら地域の津波の高さは、中央防災会議による2006年の想定より2〜5倍も大きかった。
もし、中央防災会議が長期評価に沿った対策を決め、福島沖でも巨大津波を伴う地震が発生する可能性を直視して宮城県南部や福島県でも防災対策を進めていたら、どうだったか。
原発事故をめぐっては、東京電力の元会長ら3人が業務上過失致死傷の罪で強制起訴され、東京地方裁判所で刑事裁判が続いている。島崎氏は今年5月9日、こ の裁判で証言台に立ち、そして「1万8000余りのうちかなりの命が救われただけでなく、福島の原発事故も起きなかったと思います」と証言したのであ る。〉
〈2002年にできた「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」から9年後、地震本部地震調査委員会は改訂版の「第2版」を作成した。
初版の後、地震本部と複数の大学、研究機関が連携した研究により、貞観地震(869年)による巨大津波の痕跡が判明した。その巨大津波は、宮城県から福島県にかけて陸地深くまで入り込んでいた。福島第一原発の立地エリアもそこに含まれている。
だから第2版は、このエリアでの防災対策に留意すべきだ、という項目も追加した。
島崎氏によれば、第2版は、東日本大震災の2日前、2011年の3月9日に地震本部で決定して公表し、その日の夜にはテレビのニュースで報道される段取り だったという。ところが、再び「横やり」が入る。2月中旬、地震本部の事務局から島崎氏に「決定を1カ月延期したい」という連絡が入った。
「3月の会合では決めることが多いから、という理由でした。私もそのまま了承してしまった」
2日後、東北地方を巨大津波が襲う。島崎氏はその模様を出先のテレビで見ていた。〉

 東日本大震災と福島第一原発事故を追っているジャーナリスト木野龍逸氏による地震学研究の第一人者であり原子力規制委員会初代委員長代理でもあった島崎邦彦氏へのインタビュー記事。
 死者15,854人、行方不明者3,155人合計19,009人(2012年3月現在)というこれらの災害による犠牲が、2002年6月と2011年3 月島崎氏ら地震研究者による地震本部地震調査委員会の二度にわたる福島沖の巨大津波を伴う地震予知報告と防災対策の提言を、首相を長とする「中央防災会 議」とその本部事務局官僚らがいずれも事実上無視した事による人災である事が強い憤りとともに伝わってくる。
 原発安全神話の維持のために原発が集中する福島沖を含む巨大地震・津波発生の警告を二度にわたり無視した国と東電。裁かれるべきは単に東電経営者だけで はなく地震津波への対策を怠った国であるだろう。9月1日防災の日、あらためてこの国の自然災害、原子力災害への姿勢が問われている。












 
 
















                                                                                                                                                                
  
     





























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