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2019年 8月31日
「米国は道徳、倫理、経済的に我々の資産へ課税する責任がある」「新たな税収は、中低所得層ではなく金銭的に最も恵まれた層から徴収されるべきだ」

 これも梅雨時に読んで気になっていた記事。
 ジョージ・ソロス氏など19人の米大富豪が米大統領選候補者宛ての公開書簡で、米国で下位90%と同等の富を所有する保有資産上位0.1%の超富裕層に、例えば5000万ドル(約53億6500万円)以上の資産に対して毎年2%の税を課せ、と提言。
 毎年2%課税で50年でゼロになるのか、一定の資産は維持されるのかこれだけでは不明だが、公正で持続可能な社会、公平な機会創出のためには有意義な提言だ。日本の超富裕層がひたすらおのれの資産の蓄積に励んでいるのとは対照的。日本でもこうした課税は必要だろう。

《米著名投資家ジョージ・ソロス氏など19人の米大富豪は24日、2020年の米大統領選候補者宛ての公開書簡を公表し、超富裕層税を支持するよう要請した。「米国は道徳、倫理、経済的に我々の資産へ課税する責任がある」とし、自ら大富豪への増税を訴えた。

書簡の賛同者には、フェイスブックの共同創業者クリス・ヒューズ氏やウォルト・ディズニーの共同創業者の孫娘のアビゲイル・ディズニー氏などが含まれる。

書簡は「新たな税収は、中低所得層ではなく金銭的に最も恵まれた層から徴収されるべきだ」とし、保有資産で上位0.1%の超富裕層の資産に対する課税を要 請した。書簡は、米国では保有資産で上位0.1%の層が下位90%と同等の富を所有していると指摘し、超富裕層税の導入で経済成長の促進、気候変動対策や 公共衛生の改善、公平な機会創出につながると主張している。

書簡は特定の政党や候補者を支持するものではないとしているが、具体的な政策例として民主党の大統領候補を目指すエリザベス・ウォーレン上院議員が提案す る政策に言及した。ウォーレン氏は5000万ドル(約53億6500万円)以上の資産に対して毎年2%の税を課す政策を掲げる。

民主党の大統領候補を目指すバーニー・サンダース上院議員やベト・オルーク前下院議員なども同様の政策を支持しており、超富裕層税は20年の大統領選の焦点の一つとなっている。》

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2019年 8月31日
 8月はじめに読んで頭の隅に入れておいた記事。
 ソフトバンクは2018年3月期の法人税はゼロ。理由は2016年に英半導体設計大手のアーム・ホールディングスを約3兆3000億円で買収、その一部 を傘下のソフトバンク・ビジョン・ファンド(SVF)に譲渡してアーム株が所得価格よりも時価評価額が低くなり税務上1兆4000億円の欠損金が発生した から。
 しかしこの年ソフトバンクは1兆円を超える純利益をあげていて、同じ2018年3月期決算の「役員報酬1億円以上開示企業」調査では高額報酬上位10人中2位の20億1500万円から3,4,10位8億6800万円までなんと4人のソフトバンク経営陣が名を連ねている。
https://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20180713_01.html

 実はこれは昨年に限ったことではなく、富岡幸雄中央大学名誉教授の、業績が良いのに「実効税負担率」が著しく低い主な大企業リスト(最新2事業年度分) 2014年総括表によれば2013.14年3月期決算でも3173億円の利益を上げながらソフトバンクが納めた法人税は13.14年それぞれ500万円で 計一千万円に過ぎない。(ワースト1は3370億円の利益で600万円の法人税である三井住友FG)
http://ir.c.chuo-u.ac.jp/repository/search/binary/p/7086/s/4918/?fbclid=IwAR1ZAguq0R3sRpMV3SMrvZ2PYlfG-6dLqY7wD8Lp_MOwrb0E4AcnUQxLoWU

 現在の税制ではこれらは違法とは言えないようだが、役員らは巨額の報酬を得ながら法人税は1円も納めないとは企業としての公正、社会的責任感は全く破綻 している。学校では生徒に愛国心を押し付けながら、大手企業は多国籍化などにより税逃れに専心するという構図は許されない。
 この国で格差と貧困が拡大し普通の人々が教育費負担や日々の暮らしそして老後の生活に不安を抱くなか、この国有数の巨大企業が史上最高の利益を生み出し ながら、三井住友やソフトバンクのようにあまりにも低廉な税しか負担していないのは、この国を衰退・破綻させていく道でしかない。
 この記事はさらに、「人工知能(AI)の発達によりあらゆる産業が再定義される」をコンセプトにするこのソフトバンク・ビジョン・ファンド(SVF)が 本社を事実上のタックスヘブンである英国王室属領のジャージー代官管轄区に置き、最大の出資者はサウジアラビアのムハンマド皇太子が関わる政府系の公共投 資ファンドであると指摘している。
 ムハンマド皇太子といえば同国のジャーナリストカショギ氏暗殺の疑惑にまみれながら先の大阪G20開幕の記念写真で安倍首相の右隣に次回議長国代表として立った人物。
 フランスではいわゆるGAFAなどの国内販売額に応じた課税が「デジタルサービス税」として成立した。フランス国内での年間売上高が2,500万ユーロ 以上かつ世界売上高が7億5,000万ユーロ以上の企業を対象に、2019年1月からのフランス国内での売上高に対し3%を課税する。
https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/…/47a664469fdf1e07.html
 日本も消費税を上げるのではなく、大企業への課税を強化し、本社を海外に置くことによる税逃れを防ぐためのデジタル課税創設など税制改革を断行すべきだろう。

《ソフトバンクグループが、日本国内で法人税を支払っていなかった。2018年3月期のことだが、最近になってわかったことである。脱税か? と思うが、これが合法なのだ。1兆円を超える純利益を上げている巨大企業が、税務申告では赤字になっているのだという。ーーー



2019年 8月30日
「政府が許可していない活動に参加するよう他人を煽動した」「許可されていない集会に参加した」

 香港で暴力を振るっているのは催涙弾やゴム弾を乱用する香港警察と政府が差し向けたと思われる集団。黄之鋒氏や周庭(アグネス・チョウ)氏はデモと集会 への参加と支持を呼びかけたが、国連人権規約は集会の自由(第21条)、結社の自由(第22条)を認めている。民主主義国で主権者たる市民の活動は、「政 府の許可」によって成り立つものではない。香港を、個人の人権や尊厳を否定し一党独裁を強める本国の出先機関と化した、行政府長官選出の選挙を中央政府が 認めるものしか立候補できなくした2014年8月の中国全国人民代表大会常務委員会決定こそ「一国二制度」に反する行為であり、それに抗議した「雨傘運 動」の中心人物を5年間も刑に服させたこと自体が国際法に違反している。この不当に拘束された人びとと香港の情勢を見守り続けたい。

《香港の民主団体「デモシスト」の幹部で、日本語で香港デモへの支持を呼びかけていたことでも知られる周庭(アグネス・チョウ)氏が8月30日朝、警察に拘束されたことが分かった。
具体的な容疑は明らかになっていない。

また、同じくデモシストの幹部・黄之鋒氏も拘束された。2人は2014年に発生した民主化を求めるデモ「雨傘運動」の中心人物。黄氏は運動に絡み有罪判決を受け、2019年6月に出所したばかりだった。

デモシストの公式Twitterが明らかにした。

中国共産党系の環球時報も、このツイートの情報を引用する形で2人が拘束されたことを伝えている。 

周庭氏は、デモが続く2019年6月にも日本を訪れ、講演やテレビなどに出演。独学で身につけたという流暢な日本語でデモへの支持を呼びかけていた。

【UPDATE 2019.8.30.14:00】
現地メディアの報道によると、黄之鋒さんは「政府が許可していない活動に参加するよう他人を煽動した」「許可されていない週を組織した」「許可されていない集会に参加した」の3つの疑いがある。

周庭さんは「政府が許可していない活動に参加するよう他人を煽動した」「許可されていない集会に参加した」の2つの疑いが持たれているという。》



2019年 8月30日
「韓国が歴史を書き換えたいと考えているならば、そんなことはできないと知る必要がある」27日河野太郎外相

 国有地売却への安倍首相夫妻の関与を消すために財務省文書を大幅に書き換えた公文書改ざん事件で「中核的な役割を担っていた」として停職1月となった財務官僚を、地検が再び不起訴として間も無く8月16日付で駐英公使に任命した主務大臣が隣国に語る言葉。
 この人物は、父親が26年前に語った「(慰安婦の)慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」「本件は、当時の軍の関与の下 に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」との言葉から大きく逸脱する数々の暴言を安倍政権の文科副大臣や防衛政務官が行ってきた自国の近現 代の「歴史」ももう忘れたようだ。
「職業としての娼婦だ。ビジネスだ。これを犠牲者のような宣伝工作に惑わされ過ぎている」2016年1月14日桜田義孝元文科副大臣(自民党国際情報検討委員会などの合同会議で)
「『慰安婦』とは売春婦ないし日本軍『基地相手に商売する人々』に過ぎない」と米軍戦時情報局も断定」2019年2月21日山田宏防衛政務官(ツイッターで)
https://mainichi.jp/articles/20160114/k00/00e/040/227000c
https://togetter.com/li/1322150
 被害当事者を冒涜しその名誉を重大に毀損するこれらと同じ趣旨の恥ずべき暴言を、名古屋市長や大阪市長、知事らがあいちトリエンナーレについて垂れ流 し、隣国へのヘイトを煽っていたことも記憶に新しい。こういう極めて醜悪な歴史修正主義に基づく暴言や迷言を身内の自民党と安倍政権内とその周辺で垂れ流 し続けながら、それを何ら是正しようとしないものが他国に何か歴史認識で文句を言う資格はない。
 この記事で日韓請求権協定が「元徴用工への損害賠償を含む請求権問題は「完全かつ最終的に解決」したと記している」と記すのも明らかな誤り。
「これらの規定は、両国国民間の財産・請求権問題につきましては、日韓両国が国家として有している外交保護権を相互に放棄したことを確認するものでござい まして、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させるものではないということは今までも御答弁申し上げたとおりでございます」 1991年12月参院予算委員会柳井俊二条約局長答弁
 日本政府は1990年代まで国会等で繰り返し、日韓請求権協定は国家としての外交保護権を放棄したもので個人の請求権は消滅していない、と説明してき た。現在の韓国大法院判決をめぐる安倍政権側の、判決は「国際法違反」「65年協定で解決済み」などの発言の方が自らのこの間の説明にさえ反する、歴史の 書き換えに相当する妄言でしかない。
 毎日新聞は、「韓国側の反発を招く可能性」などと他人事として指摘するのではなく、自国の外相発言の信憑性を協定の中身やこれまでの政府答弁を踏まえて自身で検証する記事をこそ書くべきだろう。
 むしろ、あくまで民事訴訟である新日鉄住金への損害賠償・慰謝料請求を認めたこの大法院判決に対して大声で干渉する日本政府こそ、放棄したはずの「外交 保護権」を協定に違反して振りかざしていると言う点で、その行動の違法性はより深刻だろう。協定と国際法に違反する行動をとり続けているのは日本政府・安 倍政権の方である。
「歴史を書き換えたいと考えているならば、そんなことはできないと知る必要がある」まさにこの人物を含め安倍政権がみずからの言葉と歴史に向き合わなければならない。

《河野太郎外相は27日の記者会見で、1965年の日韓請求権協定に関し、「韓国が歴史を書き換えたいと考えているならば、そんなことはできないと知る必 要がある」と韓国側を批判した。外国人記者からの「韓国政府が『日本は歴史問題への理解が足りない』と指摘していることにどう答えるか」との質問に答え た。質疑は英語で行われた。
 韓国国内では、1910年の日韓併合を中心とした戦前・戦中の日韓関係を巡り、日本国内の「歴史修正主義」が強まっているとの見方がある。当時の日韓関 係を清算するための65年の協定についても、「軍事政権下で結ばれた」との不満が強い。その協定を取り上げて「歴史は書き換えられない」とした河野氏の発 言は、韓国側の反発を招く可能性が高い。ーーー



2019年 8月28日
〈少なくともわめき散らす声は鮮明にその場にいた誰の耳にも届きましたけどね〉
〈(抗議を呼びかけた高校生に)業務妨害罪にならないよう気をつけて下さいね〉
https://twitter.com/shiba_masa/status/1165805528330559488

 弁護士出身でありながら政治家の街頭演説に抗議の声を上げる国民の権利を認めない、閣僚の一員でありながらその政策への抗議を「威力業務妨害」云々と高校生を脅す。
 この人物には衆議院議員の況してや文科大臣の資質はまったくない。見苦しい限り。大学入試の英語検定試験の迷走ぶりも高校生には大迷惑。即刻辞任すべき。

《埼玉県知事選の応援演説をしていた柴山昌彦文部科学相に対し、大学入学共通テストに反対するやじを飛ばした男性が県警に取り押さえられる事案があり、柴 山氏は27日の閣議後会見で「大声で怒鳴る声が響いてきた。選挙活動の円滑、自由は非常に重要。そういうことは権利として保障されていない」と述べた。

 7月の参院選中、札幌市での安倍晋三首相の街頭演説にやじを飛ばすなどした聴衆が北海道警に排除された。表現の自由を巡り、柴山氏の発言は議論を呼びそうだ。

 柴山氏によると、やじは24日夜、JR大宮駅近くで、街宣車から演説を始めた際、男性から「柴山やめろ」などの声が上がった。》



2019年 8月26日
 城崎温泉灯籠流しと花火で夏が終わる。
 朝大谷川奥の宿の高屋根と岩の露天に浸かり宿を出て温泉寺を訪ね、御所の湯は損壊事故でしばらく休業とのことで再び向かいの鸛の湯の露天に入る。
 日差しは強いが酷暑ではなく、今日も木洩れ日カフェで地ビール。大谷川沿いの店でビールで煮込んだカレーを食べ、弁財天に寄って駅に戻り午後1時過ぎの 快速と普通を乗り継ぎ和田山を経て福知山に戻る。沿線の田の緑が濃い。福知山から行きと同じバスで4時半三宮。夕方帰宅するとこちらはまだ少し暑い。


2019年 8月25日
 三宮から福知山までバスで90分、jrに乗り換えて90分で城崎に着く。
 今日の宿は大谷川の奥、宿に荷を降ろして鸛の湯の露天に浸かる。美味しい地ビールのあと駅前の通りの大幸商店に入ると数年ぶりにカワハギの造りあり。
 7時からの灯篭流しを見て一の湯のあと9時から灯篭の流れる川の上でこの夏最後の花火。日曜だからか、例年より豪華だった。昼は30度ほどだが夜は涼しい。


2019年 8月20日
広島原爆資料館(3)
 被災者たちが熱線と放射線・火災による傷に苦しみながら市内の川に移動し亡くなるさまを描いた原爆の絵を見て資料館を後にした。
 雨は上がるが平和公園と原爆ドームを望む元安川は湿気に満ちている。やや遅い昼食に板蕎麦の香り家というお店に入り鴨そばをいただく。
 つぎに公園内の原爆死没者追悼平和記念館に行く。こちらは撮影禁止。地下二階の死没者追悼空間に1945年末までの死没者14万人を示すタイルがパノラ マで展示され、遺影コーナーでは死没者の名前を日本語、英語、中国語、韓国語で検索もできる。地下一階では市内の学校で最も多い676名の犠牲者を出した 広島市高等女学校(広島一女)の企画展も開催中。
https://www.funairi-ichijo.org
 こちらは資料館に比べて空いていたが、フランス語を小声で話し熱心に展示を見る家族連れがいて、3~5歳くらいの姉妹も犠牲者の中の同年齢の少女らの写 真を指差したりしていた。しかし残念ながら資料館にはあるフランス語の説明やアナウンスはここにはない。資料館ではヘジャブをつけた女性もいた。せっかく の来訪者、さらなる多言語化もいるのでは。
 午後3時平和大通りの宿に戻り荷を受け取って本通アーケードを抜けて紙屋町のバスセンターまで歩く。昨日今日入ったお店や施設、市電などで感じたが、広島の街も人も雰囲気がとても暖かい。そごう地下で弁当など買って5時前の神戸行きバスに乗る。9時前三宮着。




2019年 8月20日
広島原爆資料館(2)
 戦後発掘された夥しい遺骨、ケロイド手術を繰り返した女性の顔面などがつづき一旦展示室をでる。次の部屋は8月6日建物疎開に動員されて亡くなった多く の中学生の写真と残された被爆衣服などの展示。お金などより命が大切なのに生徒たちは熱線と爆風、火災で無残に殺され財布の中の紙幣は無傷で残されてい る。
 戦後の核開発競争と原爆ドームの保存や被爆者の証言活動など広島の歩み、核廃絶へむけた取り組みを記すコーナーも様々な来訪者が熱心に見ていた。会場を出ると幼稚園児らが静かに移動していた。
 1Fの12月までの特別展「市民が描いた原爆の絵」を見る。黒焦げになった母子、全身焼けただれて川に集まる人々、遺体の手や足や頭部が亡くなっていく 様子、焼失した市電や水槽の中のたくさんの遺体、遺児を抱えてさまよう母など、作者らが見ながら何もできなかった悔恨と深い自責の思いとともに壮絶な情景が描かれている。


2019年 8月20日
広島原爆資料館(1)
 朝から雨、9時過ぎ展示を一新した原爆資料館を訪ねる。
西館は工事中で東館のみ公開。入って始めは被爆前の広島と生徒の集合写真。次は投下後焦土と化した街並みが屏風絵のように長く続き自身がそこに居るように錯覚する。大きな円形の卓上画面には広島に原爆が投下される様子と焦土を再現。
 次のコーナーでは犠牲になった多くの子どもたちの残された遺品や言葉と元気なころの写真がさまざまに展示されている。それらに被爆直後撮影された被爆者 の写真と、のちに市民が
自らが当時見た被爆者たちの姿を描いた絵が重なる。原爆の残酷さと非人道性が見るものを圧倒する。
 


2019年 8月19日
小雨の中早朝神戸からバスで広島に。
 30年ほどぶりの原爆ドームは雨のなか静かに佇み、海外からの訪問者も多い。新装の資料館は明日にして宿に荷を置いて市電に乗り、南区宇品の温泉に向かう。市電には車掌さんがいて降りる停車場を確認できた。
 宇品二丁目から東へ歩き地元の人に道を聞いて到着。田沢湖以来二週ぶりに快適な露天に浸かれた。
 15分ほど歩いて再び市電。行きは広島カープ、帰りは広島交響楽団のメンバーが次の駅をアナウンスしてる。無論テープだがなんとも丁寧な案内で心地よい。
 大通り沿いの宿に戻り街を歩いて魚の店で夕食後再び元安川沿いを原爆ドームに行く。やはり海外からの訪問者が熱心に説明を読んでいた。


2019年 8月17日
幾千の人の手足がふきとび/腸わたが流れ出て/人の体にうじ虫がわいた/息ある者は肉親をさがしもとめて/死がいを見つけ そして焼いた/人間を焼く煙が 立ちのぼり/罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた/ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった/だけど……/父も母も もういない/兄も妹ももどって はこない/人は忘れやすく弱いものだから/あやまちをくり返す/だけど……/このことだけは忘れてはならない/このことだけはくり返してはならない/どん なことがあっても……

「今、核兵器を巡る世界情勢はとても危険な状況です。核兵器は役に立つと平然と公言する風潮が再びはびこり始め、アメリカは小型でより使いやすい核兵器の 開発を打ち出しました。ロシアは、新型核兵器の開発と配備を表明しました。そのうえ、冷戦時代の軍拡競争を終わらせた中距離核戦力(INF)全廃条約は否 定され、戦略核兵器を削減する条約(新START)の継続も危機に瀕(ひん)しています。世界から核兵器をなくそうと積み重ねてきた人類の努力の成果が次 々と壊され、核兵器が使われる危険性が高まっています」
「世界の市民社会の皆さんに呼びかけます。
 戦争や被爆体験を語り継ぎましょう。戦争が何をもたらしたのかを知ることは、平和をつくる大切な第一歩です。
 国を超えて人と人との間に信頼関係をつくり続けましょう。小さな信頼を積み重ねることは、国同士の不信感による戦争を防ぐ力にもなります。
 人の痛みがわかることの大切さを子どもたちに伝え続けましょう。それは子どもたちの心に平和の種を植えることになります」
「すべての国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れ、原子雲の下で何が起こったのかを見て、聴いて、感じてください。そして、核兵器がいかに非人道的な兵器なのか、心に焼き付けてください」
「核保有国のリーダーの皆さん。核不拡散条約(NPT)は、来年、成立からちょうど50年を迎えます。核兵器をなくすことを約束し、その義務を負ったこの 条約の意味を、すべての核保有国はもう一度思い出すべきです。特にアメリカとロシアには、核超大国の責任として、核兵器を大幅に削減する具体的道筋を、世 界に示すことを求めます」
「日本政府に訴えます。日本は今、核兵器禁止条約に背を向けています。唯一の戦争被爆国の責任として、一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してくださ い。そのためにも朝鮮半島非核化の動きを捉え、「核の傘」ではなく、「非核の傘」となる北東アジア非核兵器地帯の検討を始めてください。そして何よりも 「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念の堅持と、それを世界に広げるリーダーシップを発揮することを求めます」

 暑さ、外泊そしてなにより怠惰の故にひと月ほど遅れていた新聞の閲覧がようやく一週間前に追いついた。
 これは9日長崎平和祈念式典での田上市長の平和宣言。
 例年に増して世界とくに核保有国の現状への強い危機感と核の傘に頼り核廃絶への努力に背を向ける日本政府への強い憤りを端的に力強く語っている。
 INF(中距離核戦力全廃)は放棄され、NPT(核不拡散)の不拡散は骨抜きに、核保有国の削減努力義務もサボタージュ、米国はCTBT(包括的核実験禁止)を批准すらしていない。
 だからこそ核兵器の廃絶を求める被爆者と市民の声を代弁する田上市長の言葉は未来を切り開く強くて深い響きがある。
「原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です」

《9日の平和祈念式典で長崎市の田上富久市長が述べた平和宣言は以下の通り。
 目を閉じて聴いてください。ーーー



2019年 8月17日「あれは本当に悲惨やった。原爆の話はしとうなか」
「子どもやけん、大人の言うことが正しいと思っとった」
「僕は天皇に忠義を尽くしきれずに死んでしまうのかもしれん」弟幸一郎さん9歳
「弟はまだ国民学校の3年生だった。9歳の子どもにあんなことを言わせて、何が戦争か」
「(教科書の)戦争や兵隊について書いてある部分を全部消していく。そしたら、接続詞しか残らなかった」
「戦争はダメですよ。私たちだけで十分ですよ」

 10歳で被爆した自らの戦争・被爆体験を昨年から語り始めた、爆心地から約1キロの長崎市西郷の辻本正義さんを24歳の若い記者が取材した記事。
被爆して上半身が灼け爛れた弟は終戦の日に、父は9月1日に亡くなり祖母、母らと戦後を生き抜いてきた人の語る言葉は重く、弟幸一郎さんの死を前にした言葉はなんとも痛ましい。
 幼い子供達に天皇への絶対服従を教え「1億玉砕」を唱えて無謀な戦争を遂行したこの国と、民家や市民への機銃掃射と爆撃を繰り返し、最後には市民を標的に原子爆弾を二個投下して勝利した国が共に向き合うことがない国家としての戦争責任。
 焦土と化した廃墟からの生活再建を全て戦争孤児や片親をなくした家族ら市民に背負わせ、空襲による民間人の被害、原爆投下による後遺症など戦争被害者の 訴えは、シベリア抑留者の賠償請求や軍慰安婦と強制徴用者の謝罪と補償要求を含め「時効」「除斥期間」「国家無答責」「請求権放棄」などを理由に退ける。
 これではまた膨大な市民の犠牲を生みながら戦争を行うことを国家はためらうことがない。国や民族の違いを超えてそのことへの怒りを共有することからしか、人類の持続可能な未来は生まれない。

《ナガサキノート:辻本正義さん(1935年生まれ)
 昨年、先輩記者から辻本正義(つじもとまさよし)さん(84)を紹介された。辻本さんは西浦上国民学校(現・西浦上小)5年だった10歳のときに、爆心 地から約1キロの長崎市西郷(現・油木町)で被爆。昨年夏に長崎原爆被災者協議会が開いたイベントで、初めて人前に出て被爆体験を話した。
 なぜ今話そうと思い立ったのだろうと関心を抱き、現在も油木町に住む辻本さんを記者は訪ねた。快く迎え入れてくれた辻本さんだが、話題が戦争のことに向かうと表情が曇った。「あれは本当に悲惨やった。原爆の話はしとうなか」
 母校は原爆で校舎が全壊するほどの被害を受けた。あの惨禍について十分に調査され、継承されているのか、という思いを抱き続けてきた。もう自分のような 悲しい思いをする人を生まないため、少しでも当時の記録を後世に残そうとの思いで語り始めたという。それでも、当時を振り返るとつらくなる。辻本さんは複 雑な葛藤を抱えながら、少しずつ自分の体験を語ってくれた。
 辻本さんは、6人きょうだいの次男として生まれた。「小柄でおとなしい子どもだった」。山の上にあった長崎市西郷の自宅の窓から外を眺めていることが多 かったという。1歳下の弟・幸一郎さんがいるときは、近所の田畑で、せいろにひもを結びつけたものを引きずり、からんころんと音を鳴らして遊んだ。
 1941年に西浦上国民学校に入学。山をおりて通学するようになった。初めて間近で列車を見て、その大きさに驚いたという。「窓から見たらマッチ箱ぐらいの大きさやったのに、車輪だけで人の背丈ほどもあるなんて、たまげたなあ」
 朝は近所の子どもたちと連れ立って、「さくらさくら」や「茶摘み」などの童歌を歌いながら登校した。帰りは子どもだけで山を登るのは大変だろうと、祖母 のハツさんか母のフヂエさんが迎えに来てくれた。だが、その年の12月に太平洋戦争が始まると、のどかな日常はがらっと変わった。
 ♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは〜
 子どもたちが口ずさむ歌は、軍歌に変わった。大人たちと連れ立って、早朝に住吉神社(長崎市住吉町)に「戦勝祈願」に行くこともあった。家の近くでは、田畑を潰して三菱長崎兵器製作所の寮や工場が建てられた。
 学校では昭和天皇に忠誠を誓うよう教えられ、校舎の横には天皇の写真をまつった「奉安殿」ができた。ラジオの大本営発表がある時や天皇の誕生日には、奉 安殿から校内の講堂に写真が運び出された。子どもたちは写真に最敬礼をし、直立不動でラジオの発表や先生の読む教育勅語に耳を傾けた。
 「子どもやけん、大人の言うことが正しいと思っとった」。戦争一色に染まっていく世の中に、辻本さんが疑問を持つことはなかった。
登校中、機銃掃射の標的に
 戦況が悪くなると、ひっきりなしに警報が鳴るようになり、学校もよく休みになった。
 辻本さんは学校に行く途中、低空飛行していた戦闘機から機銃掃射の標的にされたことがある。ほかの子どもたちと無我夢中で走り、校門の外に放置されていた水道管に間一髪で逃げ込んだという。弾が水道管にぶつかる「ピシッ、ピシッ」という音が、今も耳にこびりついている。
 辻本さんが学校で教えられたのは、「空襲があったら目と耳を覆って地面に伏せろ」ということだけ。それが身を守る唯一の術(すべ)だった。避難場所は、 校舎の脇に掘ってある全長60メートルほどの防空壕(ごう)だけ。「いま考えたら、こんなにお粗末なことで勝てるわけがなかったと分かる」
 1945年8月9日、辻本さんはいつものように学校に向かったが、途中で警戒警報が鳴ったため家に戻った。自宅から数十メートル離れた田んぼで、母のフヂエさんと農作業をしていた。
 よく晴れた日だった。「飛行機が『ブーン』と音を立てて飛んでいたことは覚えとる」。今思えば、あれがB29だったか。
太陽の何倍も強い光
 山あいにある長崎市西郷は、空襲の標的になることが少ないと聞いていた。そのまま農作業を続けていると、太陽の何倍も強い光を感じた。その直後、「ドカーン」という爆音とともに10メートルほど吹き飛ばされて意識を失った。
 しばらくして、田んぼの水を吸い込み、むせかえって目が覚めた。フヂエさんと家に戻ると炎に包まれ、隣にある牛舎で牛が焼け死んでいた。フヂエさんは 「あんたはあっちに行ってなさい!」と叫び、1人で布団やタンスを運び出した。弟の幸一郎さんは、近くの用水路に水をくみに行った時に被爆した。ちょうど 爆心地の方向を振り返っていたのだろうか、体の前半分にやけどを負って皮膚がただれ落ちていた。辻本さんは、何が起こったのか分からなかった。
 10軒程度しかない小さな集落は、あっという間に火の海になった。辻本さんは幸一郎さんを背負い、フヂエさんとともに山の中腹あたりまで避難した。途 中、幸一郎さんが「僕は天皇に忠義を尽くしきれずに死んでしまうのかもしれん」とつぶやいた。すぐにフヂエさんが「大きくなって立派な兵隊さんになるんで しょう」とたしなめた。辻本さんは、弟を助けたい一心で足を早めた。
 辻本さん一家は、今の長崎市小江原に住む親戚の家に身を寄せたが、十分な薬はなかった。幸一郎さんはやけどのつらさから逃れようと、うわごとのように「兄ちゃん、泳ぎに行こう」と繰り返したという。
 終戦を迎えた8月15日の朝、幸一郎さんは死んだ。
 「弟はまだ国民学校の3年生だった。9歳の子どもにあんなことを言わせて、何が戦争か」。当時を振り返り、辻本さんは憤った。その目には、今にもこぼれ落ちそうなほど涙を浮かべていた。
防空壕を掘っていて被爆した父も
 辻本さんの父・久右ヱ門(きゅうえもん)さんは、三菱長崎造船所の竹ノ久保工場で働いていた。8月9日は工場の外で防空壕を掘っている時に被爆した。何かの破片で頭を切るけがをしていたが、その日の午後3時ごろ、自力で歩いて辻本さんたちのもとへ戻ってきたという。
 当初はけがも快方に向かい、元気だったという久右ヱ門さん。だが、8月下旬ごろから突然けがが化膿(かのう)し、赤紫色の斑点が体中に現れるようになった。辻本さんは毎日、近くの山でツワブキの葉をとり、薬代わりに久右ヱ門さんの傷口に貼った。
 9月1日、祖母ハツさんのひざの上で眠っているようだった久右ヱ門さん。だが、辻本さんが「お父ちゃん」と呼んでも目を覚ますことはなかった。その日か ら3日間、ひどい雨が降ったため火葬ができず、辻本さんは久右ヱ門さんの遺体の隣で寝起きした。久右ヱ門さんの隣には、別の親戚の遺体もあった。たび重な る家族の死に、辻本さんは「なんて言っていいか、分からんかった」。
 久右ヱ門さんが亡くなってすぐ、国民学校が再開した。だが、木造の校舎は粉々に崩れており、まともに勉強ができる状態ではなかった。無事だった奉安殿だ けが、ぽつんと立っていた。辻本さんはその様子を「亡霊みたいで、よく覚えとる」と話す。同級生には、すっかり髪が抜け落ちている女の子もいた。それで も、同級生と無事を確認し合えたことがうれしかった。
 授業は、原爆の被害を免れて残った教科書に墨を塗ることから始まった。「戦争や兵隊について書いてある部分を全部消していく。そしたら、接続詞しか残らなかった」
 新たに配られた教科書は、食物の栄養価などについて書かれた「何をどれだけ食べたらよいか」と、天皇制が廃止された後の社会に向けて歴史を学び直す「日 本のあけぼの」という2冊だったと記憶している。「食べ物も何もかも足りない中で、みんな生き抜くのに必死だった」。辻本さんも、学校に通う余裕はなかっ た。
 国民学校が再開した直後から、母や親戚と土地をならして畑を作り、家族が住むためのトタン小屋を建てた。辻本さんは雑用係として働き、約2カ月間学校を休んだ。生活を立て直すことが最優先だったため、学校を休むことに負い目は感じなかったという。
 近所に住む同級生に「先生が『学校に来い』と言っとったぞ」と言われて、仕方なく登校した。久しぶりの授業は、まったく内容についていけなかった。今でも割り算が苦手だという。
「あの戦争なければ」今も怒りが
 1949年に学校を卒業してすぐ、辻本さんは建設関係の仕事を始めた。長崎市油木町の道路の整備などに携わり、秋には諏訪神社で営まれる「長崎くんち」の桟敷席も組んだ。
 その後、材木店に転職した。「少しでも生活がよくなればと、がむしゃらに働いた」。24歳になった1959年、それまでの貯金を崩し、今も住んでいる一軒家を建てた。家財道具は、母のフヂエさんが「あの日」に燃える家から救い出したものをずっと使った。
 家を建てて2年後の1961年、祖母ハツさんが死去した。その6年後、辻本さんは独立し、油木町の自宅の向かいに「辻本材木店」を開いた。
 フヂエさんは、朝から晩まで忙しく働く辻本さんの体や、店の経営状態を心配して口を挟んでくることも多かった。そんなフヂエさんも、1991年に亡く なった。「毎日がおふくろとの言い争いやった。でも、なんだかんだ言いつつも自分のことを理解して、見守ってくれていたと思う」
 辻本さんは、ハツさんとフヂエさんが生前に戦争について語るのをほとんど聞いたことがないという。「家族や家を失った自分たちの状況への悔しさはあったと思うが、恨みごとは言わなかった。『仕方がない』と、諦めの気持ちが強かったんだと思う」
 しかし、フヂエさんはよく「世が世になれば」と言っていたという。「世の中がよくなれば自分たちの生活もよくなる、という意味だった。自分に言い聞かせていたんだろう」
 辻本さんは、今でも「あの戦争がなければ」と悔しさや怒りがわき上がってくることがあるという。空襲のたびに街が燃えているのが見え、大きな音が聞こえてきた。戦後は破れたズボンの穴に新聞をくっつけたり、わらで草履を作ったりした。戦争は恐ろしく、苦しかった。
 なにより原爆で家族をなくし、家を失い、学校にもろくに通えなかった。「人生がまったく変わっとるもん」
 米国とロシアの中距離核戦力(INF)全廃条約破棄といった最近の国際情勢に、辻本さんは再び戦争が始まるのでは、という危機感をぬぐい去ることができないという。
 「戦争はダメですよ。私たちだけで十分ですよ」
 辻本さんは、まっすぐに記者を見てそう語った。そのまなざしに、辻本さんが戦争体験を話し始めた理由を見た気がした。(弓長理佳・24歳)  》



2019年 8月15日
「(夫がいる)奥さんには頼めん…。あんたら娘だけ、犠牲になってくれんかと言われた。団の幹部にですよ」「怖くても嫌とは言えなかった。女は命を守るために性を提供することもある。そう教えられていた」「私は満州で一度死んだようなもの」
「罪深い歴史を後世に伝える責任を感じていた」「子どもたちに二度とつらい思いをさせたくない」

 14日の東京新聞記事。
 敗戦直後旧満州で開拓団幹部の指示でソ連兵への性接待を強いられた15人の女性たちのなかで実名で自身の経験を語り始めた女性と性被害の実態を克明に記念碑に記録した四代目の遺族会長の言葉。
 74年前までこの国の戦時性暴力という犯罪が植民地や占領下の女性に対して行われただけではなく、敗戦時に侵攻する敵軍に自国の女性を提供するという形 でも行われていたという罪深い事実と、それを証言し記録しようとする崇高な姿勢。その根底にあるのは「子どもたちに二度と辛い思いをさせたくない」という 決意。戦後74年過ぎた今も、学ぶべきことは多い。

《性接待「私は満州で1度死んだ」 中傷、差別恐れず実名公開「悲劇語り継がねば」〈つなぐ 戦後74年〉
2019年8月14日 16:55 東京新聞
 敗戦直後の旧満州(中国東北部)で、岐阜県の黒川村(現白川町)周辺から渡った黒川開拓団の女性が、団幹部の指示でソ連兵に性的な「接待」をさせられ た。今月一日には地元から遺族会が中国の同団跡地へ墓参。中傷や差別を恐れ、口を閉ざしてきた女性や遺族らは近年「悲劇を語り継がねば」と、行動を続けて いる。(秋田佐和子、平井一敏、浅井正智)
◆「あんたら娘だけ、犠牲になってくれんか」
 「(夫がいる)奥さんには頼めん…。あんたら娘だけ、犠牲になってくれんかと言われた。団の幹部にですよ」
 当時二十歳だった佐藤ハルエさん(94)=岐阜県郡上市=が、自身の体験を公に語り始めたのは二〇一三年。長野県阿智村にできた満蒙(まんもう)開拓平 和記念館で講演した。接待をさせられた女性十五人のうち四人が性病などで現地で亡くなっている。今、存命者の中で、佐藤さんだけが実名で取材などに応じ る。「満州で一度死んだ。どう思われたっていい」と前を向く。
 吉林省陶頼昭(とうらいしょう)に入植した黒川開拓団は一九四五年八月の敗戦で現地住民らからの略奪に遭った。団の男たちは侵攻してきたソ連軍に警護を頼み、代償に未婚の若い女性を差し出した。
「私は満州で一度死んだようなもの」と話す佐藤ハルエさん。帰国後、故郷の人たちから冷たい言葉を投げつけられ、境遇に同情してくれた夫とはひるがの高原で暮らした=岐阜県郡上市で
 「怖くても嫌とは言えなかった。女は命を守るために性を提供することもある。そう教えられていた」。性の接待は二カ月ほど続いたという。
◆「罪深い歴史を後世に伝える責任感じて」
 元団員で、敗戦時は十歳だった安江菊美さん(84)=白川町=は、佐藤さんと同時期に証言し始めた女性から、亡くなる前に、語り部になるよう託された。 現地で接待をする女性たちのために風呂たきなどを手伝っていた。性病予防と称し、医務室で女性が薬品をかけられていた様子など、見たままを伝える。
 七月二日には岐阜大から近現代史の研修に訪れた学生十二人に、町内に立つ「乙女の碑文」の前で説明。高校の社会科教諭を目指す井戸文哉さん(20)は「重くデリケートな問題だが、自分たちが伝えていかないといけない。使命感を覚えた」と神妙に話した。
 白川町でこうした動きを始めたのは、一一年に四代目の遺族会長となった藤井宏之さん(67)。父は開拓団の団員だった。町では満州で亡くなった四人を悼むため、八二年に会が「乙女の碑」を建立したが説明書きはなかった。語ることがタブー視されていたからだ。
 「罪深い歴史を後世に伝える責任を感じていた」と昨年十一月、会により性被害の実態を詳細に記した「乙女の碑文」を建てた。十五人もの関係者から意見を聞き、四千文字を費やして何があったのかを明らかにした。
 遺族会は今月一日、二年ぶりに墓参りのため旧満州の跡地を訪れた。藤井さんは「子どもたちに二度とつらい思いをさせたくない」と、暗い歴史と向き合う決意を見せている。
<満蒙開拓団> 国策として旧満州と内モンゴルに1932年から終戦までに約27万人が入植した。疲弊した農村人口を減らし、北方警備の盾とする目的も あったとされる。45年8月9日に始まったソ連軍の侵攻、敗戦による混乱の中で約8万人が死亡。多くの中国残留孤児を生んだ。
外部リンク
ソ連兵への"性接待"…被害を刻む「乙女の碑」     》



2019年 8月15日
「県庁等にサリンとガソリンをまき散らす」「県内の小中学校、高校、保育園、幼稚園にガソリンを散布し着火する」「県庁職員らを射殺する」

 卑劣極まりない重大犯罪である京都アニメーション第一スタジオ放火事件を真似てガソリンを散布するなどという脅迫メールは770通。これ自体が卑劣極ま りない犯罪。展示を「慰安婦はデマ」「日本人の心を傷つける」などと言って批判した大阪、名古屋市長らに連なるものたちがどれだけいかがわしい存在である かがよくわかる。そうでないならこれらの市長はこういう脅迫行為を率先して批判すべきだろう。そうしないのは共犯関係にあるということ。

《国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった問題で、愛知県は14日、芸術祭実行委員会などに届いた 「県庁等にサリンとガソリンをまき散らす」などと書かれた脅迫メール770通について、県警東署に被害届を提出し、受理された。

 脅迫メールは5〜9日にかけて、実行委や県庁の各部署などに届いた。メールには「県内の小中学校、高校、保育園、幼稚園にガソリンを散布し着火する」「県庁職員らを射殺する」などと書かれていた。5日には同一のメールアドレスから144通届いたという。

 実行委や県庁には1日の芸術祭開幕から13日までに、計約5500件の抗議の電話やファクス、メールが届いている。【竹田直人】》



2019年 8月15日
「驚きました。
大阪市の松井一郎市長のことです。「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与して強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤 報と謝罪しているわけだから」(5日、記者団に)と発言しました。名古屋市の河村たかし市長も「強制連行し、アジア各地の女性を連れ去ったというのは事実 と違う」(5日、記者会見)と言っている。
 事実認識が間違っているし、従軍慰安婦問題とは何か、分かっているとは思えない発言です」
「陸軍の場合、最初は現地の軍が中央の承認を受けて設置する形でしたが、42年になると、陸軍省が自ら設置に乗り出します。つまり軍が設置・維持の主体だったのです。経営は業者がする場合もありましたが、管理・統制はいずれも軍が行いました。
 では慰安婦はどのように集められたか。おおよそ三つの形があります。@軍が選んだ業者が、女性の親族にお金を貸す(前借金)かわりに、女性を慰安所で使 役する「人身売買」A業者が酒席の世話係とか、看護婦のような仕事だなどとだまして連れて行く「誘拐」B官憲や業者が脅迫や暴力で強制連行する「略取」 ――です」
「植民地である朝鮮半島では@やAが多い。Bは、中国や東南アジアなどの占領地で官憲による強制連行が行われたことを示す裁判資料や証言があります。
「慰安婦問題は業者がやったことだから軍、つまりの国の責任はないじゃないか」と言う人がいます。でも考えてみてください。そもそも、軍が慰安所制度を 作ったんです。管理・統制も軍です。利用するのも軍人・軍属だけです。女性たちも、軍が選定した業者が軍の要請で集めたのです」
「朝鮮半島以外の、中国や東南アジアでは@、Aのほか、Bの軍による強制連行もありました。中国でも山西省や海南島で女性が日本軍兵士らに拉致されたこと は最高裁で事実認定が確定していますし、インドネシアでもオランダ人女性が官憲に強制連行され、軍の慰安所に入れられる事件があったことが確認されていま す。フィリピンでも軍による強制連行を訴えて、元慰安婦の女性たちが裁判を起こしています」
「私は強制連行の有無など、女性はどのようにやって来たのかということは副次的な問題で、核心は女性が「性的奴隷」としか呼べない状況に置かれたことだと思います。
 なぜなら、軍の慰安所規定や元慰安婦の証言などから、慰安婦には少なくとも「四つの自由」がなかったことが明らかだからです。
まず「外出の自由」です。慰安婦は軍の監視下に置かれ、許可がなければ外出できませんでした。逃亡を防ぐため、許可を得て外出できても監視役がついていた。許可がなければ外出すらできないのを「自由があった」とは言いません。
二つ目は「居住の自由」です。女性たちは慰安所の中で生活しなければなりませんでした。
三つ目は「廃業の自由」です。契約年限を終えるか前借金の返済を終えるまで、やめたくてもやめられなかった。さらに軍と業者の廃業許可も必要でした。軍が許可せず、慰安所に留め置かれたケースもあります。
最後は「拒否の自由」。元慰安婦は、兵士との性行為を拒否できませんでした。拒めば兵士や業者に暴力を振るわれることになる。言うまでもなく、性行為の強要は強制性交(強姦)です。
以上はどれも基本的人権に関わる自由ですが、これらが奪われていたのです。奴隷状態と言わざるを得ません」
「慰安婦問題とは、強制連行があったかどうかとかいう問題ではなく、日本軍が女性の自由を奪い、性行為を強制したという女性の人権問題そのものなのです。だから世界の人たちが厳しい目を向けているんです。
こうしたことを言うと「反日」「日本人をおとしめるな」などという言葉を投げられます。これは逆ではないでしょうか。負の過去は見ない、事実と向き合わないことこそ、日本をおとしめる行為だと確信しています」

 慰安婦問題研究の第一人者である吉見義明・中央大名誉教授に取材した74年目の終戦の日の毎日新聞記事。
 「負の過去を見ない、事実と向き合わないことこそ、日本を貶める行為」とはまさに的確な指摘。「従軍慰安婦資料集」(大月書店1992年)などで明らかになった日本軍慰安婦に関する基本的な事実が分かりやすく解説されている。
 日本軍慰安婦は1932年上海事変以降日本軍が創設し厳格に管理・統制してきた。募集のやり方は植民地だった朝鮮半島では親族への前借金による「人身売 買」と他の仕事だと偽って行う「誘拐」、中国やアジアの占領地ではさらに出先の部隊が脅迫や暴力で行う「略取」=強制連行も常態化していた。
 これらは当時すでに日本が締結していた1910年の「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買禁止二關スル國際條約」(日本1925年締結)や1921年の「婦人 及児童ノ賣買禁止二關スル國際條約」(日本1925年締結)そして1930年の強制労働条約(日本1932年批准)などの国際条約に明確に抵触する行為で あった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約
https://www.ilo.org/tokyo/standards/list-of-conventions/WCMS_239150/lang--ja/index.htm?fbclid=IwAR3v9BZz3TbtE8VvUtK1u2FuvY3JfPk34wj45JzlUzO_IPG18gUzh-w57Ws

 1990年代から行われた朝鮮、中国各地そしてインドネシアやフィリピンにおける被害者による我が国に対する訴訟では、賠償請求はいずれも「除斥期間」 や「国家無答責」「日華平和条約で解決済み」などの無責任な理論により退けられたが、日本軍の行為自体は「著しく常軌を逸した卑劣な蛮行」「強制労働条約 や醜業条約に違反した行為があり国際法上の国家責任が発生した」などと認定したものは少なくない。
https://wam-peace.org/ianfu-mondai/lawsuit
 加害事実を認めながら賠償責任は拒否するという姿勢から加害事実そのものを「デマ」と言ってなかったことにし、さらに加害を象徴する展示を「ガソリンやサリンをばらまく」と言って脅迫する姿勢まで。戦後74年、この国の過去への向き合い方の劣化が問われている。

《「従軍慰安婦はデマ」というデマ 歴史学者、吉見義明氏に聞く
危機である。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」で、従軍慰安婦問題を象徴する少女像などを展示した企画展「表現の不自由展・その後」が中止された一件 だ。表現・言論の自由が脅かされる現実もさることながら、「慰安婦問題はデマ」という発言が飛び交う世相も相当に深刻だ。慰安婦問題研究の先駆者、吉見義 明・中央大名誉教授と史実をおさらいした。【聞き手・吉井理記/統合デジタル取材センター】ーーー



2019年 8月14日
日記がわりに。
 八月の三連休初日神大を抜けてil ventoに向かうが、神戸はふつう京都などより2~3度気温は低いのに人生で経験したことがない暑さ。ビールとピザを美味しくいただき六甲駅から三ノ宮に出てモトコーから大丸横のfamigliaに行って一休み。
夜は前日得た岩手産の少し小ぶりな秋刀魚がすごく美味しかった。
 翌日は篭って月曜も三ノ宮で中華街を抜けて栄通りの店でデトックスの水とピザ。
 台風が近く今日は朝から雲の流れが早い。台風襲来前に見たかった映画をと三ノ宮ミント神戸に行くと皆さん同じでチケット売り場はかなりの行列。階下のレストランもかなり混んでいて、比較的空いているイタリアンで初めて魚介のトマトソースのランチを食べるとこれが大正解。
 アニメ「天気の子」は扱うテーマは去年今年まさにこの国も直面している気候変動と豪雨災害。地球温暖化を否定する愚かな大統領が何処かにいるが、この映 画はそれが一人の人間が起こす奇跡や犠牲によってではなく、ひろく人類の大きな課題だということをきちんと描いて終わる。素晴らしい。 
 今日はどうにか豪雨はなかったが明日からの台風でお盆休みからの帰省はどうなるのか。
 


2019年 8月10日
「撤去費が不適正であると認定することが困難」
「(改ざんされた)文書に新たな証明力が生まれたと認定するのは困難」

 大阪地検特捜部は国有地売却をめぐる背任容疑の財務省近畿財務局管財部次長や国土交通省大阪航空局職員ら4人と、公文書改ざんをめぐる有印公文書変造・同行使容疑の佐川理財局長や近畿財務局管財部長ら6人を全員を不起訴に。
 国有地を8億2千万円値引きした売却の正当性に関わる疑惑や、首相や婦人の関与を隠滅するための大量の公文書改竄を、うえのような薄弱な理由で不起訴とするのなら、地検や特捜部は存在する必要はない。
 この決定を9日長崎原爆慰霊の日に発表する大阪地検特捜部の感性を疑う。できるだけ世間の耳目に触れないようにという極めて愚かな思惑としか見えない。この大阪地検特捜部には巨大な「前科」がある。
 2009年6月大阪地検特捜部は障害者団体への偽の証明書発行の件で厚労省障害保健福祉部企画課長の村木厚子氏を虚偽公文書作成・同行使の疑いで逮捕 し、翌月起訴。しかし村木氏は容疑を否認し翌2010年大阪地裁で無罪判決が出て検察は控訴せず確定した。ところが村木氏を逮捕した地検特捜部主任検事前 田恒彦が村木氏起訴のために証拠書類の作成日時を捜査方針に合わせるために書き換えるという証拠改竄を行なっていたことが判明し証拠隠滅の疑いで逮捕さ れ、大阪地検特捜部長大坪弘道と副部長佐賀元明ら上司2名が前田による改竄を知りながら容認したとして犯人隠避の容疑で逮捕されるに至る。
 村木氏が違法に逮捕された証明書発行が有印公文書偽造にあたり、前田主任検事の証拠書類作成日時の書き換えが証拠隠滅にあたるなら、佐川ら財務省幹部が首相婦人らの国有地売却への関与の証拠を隠滅するための有印公文書変造ははるかに重大な犯罪であるだろう。
 大阪地検は自らの主任検事証拠改ざん事件から何も学んでいない。政治家の汚職や脱税、大規模な経済事件を捜査しこの国の歪みを正す役割を担うはずの検察特捜部がこんな体たらくではこの国は堕落と腐敗を続けるだけだ。こんな地検はいらない。

《学校法人森友学園(大阪市)への国有地売却や財務省関連文書の改ざんなどをめぐる問題で、大阪第一検察審査会が「不起訴不当」と議決した佐川宣寿(のぶ ひさ)・元同省理財局長(61)ら10人を再捜査していた大阪地検特捜部は9日、再び全員を不起訴処分(嫌疑不十分)とした。▼2面=残る謎、31面= 「捜査尽くしたか」
 検審の議決が強制起訴につながる「起訴相当」でなかったため、検審による2度目の審査は行われず、特捜部は捜査を終結した。ーーー



2019年 8月 8日
「私の出身地は当初、原爆の標的でした。私の祖父母が焼け死んでしまっていたら、私はここにいなかったかも知れません。しかしその日、天気が曇りだったの で標的は長崎に変わりました。リッチランド高校ではキノコ雲のロゴは誰もに愛され、そこらじゅうにあります。私にとって、キノコ雲は犠牲になった人と今の 平和を心に刻むものです。キノコ雲の下にいたのは兵士ではなく市民でした。罪のない人たちの命を奪うことを誇りに感じるべきでしょうか」
〈しかし歴史の授業を受ける中で、古賀さんは周りのほとんどが「アメリカが原爆を落としたから戦争が終わり、多くの命が救われた」と考えていることを知り、モヤモヤが大きくなっていきました。
そのモヤモヤを問題意識へと変えたのは高校の先生、ショーン・マーフィーさんでした。ある日、ロゴ入りのパーカーを着ている古賀さんに「キノコ雲が何でできているか知っているかい?」と問いかけたのです。
答えにつまった古賀さんにマーフィー先生は、ロゴが長崎に落とされた原爆を表していること、その原爆のプルトニウムが町で作られたことを説明し「キノコ雲は犠牲になった市民や破壊された建物からできている」と話したと言います〉

 74年前の今日テニアンの基地を飛び立った米B29爆撃機ボックス・カー号は午前9時40分過ぎ目標の小倉上空に達したが雲に遮られて視界が悪く、第二 目標とされた長崎に向かい午前11時過ぎに広島ウラニウム型に続く二発目のプルトニウム型原子爆弾を投下した。両市の間には博多、久留米、鳥栖、佐賀そし て柳川などわたしにも関わりのある町が点在している。原子爆弾の投下は74年前この国に暮らしていた誰にも起こり得た悲痛な出来事。
 福岡大牟田出身の高校生が交換留学で訪ねた米国リッチランドは大戦期プルトニウム生産の拠点だった街。キノコ雲のロゴマークを誇りにする市民や生徒のな かで黙り込むのではなく、勇気をもって原爆投下の非人道性を生徒たちに語りかける。それを高校の教師が後押しし、ホームステイ先の母も協力する。
 今この国で繰り広げられるいい年をした市長や政治家ら大人たちの偏狭な隣国バッシングと排他的な振る舞いと比べ、この高校生の行動は次元が違う感動的な ものだ。今日9日の朝日などがこのエピソードを伝えているが、わたしが知る限りではこのNHKの報道が最も早く、かつ古賀野々華さんの動画での語りかけの 全文そしてショーン・マーフィー教諭、ホストマザー、サラ・ランドンさんの写真も含まれて内容が詳しい。
 なお、朝日は今日の報道でショーン・マーフィー教諭に取材した次の言葉を伝えている。
「教師として、両サイドの意見を生徒に知ってほしいと思った。両方の意見がなければ、私たちは成長できない。リッチランドとしても彼女の意見を聞いて成長できた」
https://digital.asahi.com/articles/ASM815V6SM81TIPE02G.html?iref=comtop_favorite_01&fbclid=IwAR1gQrojiePm4BtErQCLsbOxXDkrX9v5KvKDjRSwSsbo7kBLCqwgGM2x8Zk

 これも今この国に暮らすわたし達にも大事な指摘だ。未来につながるエピソードであり報道だろう。
《アメリカに留学したら、受け入れ先の高校の壁には巨大なキノコ雲のロゴ。バスケットボールコートの床にも、学校のTシャツにも、キノコ雲は誇らしげに描 かれていました。10か月後、帰国を控えた18歳の高校生は、異を唱えました。「私にとって、キノコ雲は…」 声をあげた高校生と、それを支えた人たちの話です。(国際部記者 濱本こずえ)
留学先は「原子力の町」
アメリカ西部ワシントン州のリッチランド。この町には長崎に投下された原子爆弾のプルトニウムを生産した歴史があります。戦後も核関連の産業が盛んで、 「原子力の町」とも呼ばれてきました。多くの住民はその歴史に誇りを持っていて、「Atomic(原子爆弾は英語でAtomic bomb)」という言葉は日常にあふれています。
この町の高校に交換留学で通うことになったのが、福岡県出身の高校3年生、古賀野々華さんです。去年8月に初めてこの町を訪れました。
「インターネットで検索して、何人の生徒がいるとか、どんなクラブがあるかは知っていましたが、学校に行くようになって、初めてロゴのことを知りました」(古賀さん)
ロゴは学校の壁や廊下の床など至る所に描かれ、愛されています。キャッチフレーズは“Proud of the cloud”。「キノコ雲は我らの誇りだ」という意味です。
モヤモヤが問題意識に
周りの生徒たちは皆、キノコ雲ロゴのTシャツやパーカーを着ています。古賀さんも、はじめはあまり深く考えず、同じようにロゴ入りのスクールグッズを身につけていたと言います。
しかし歴史の授業を受ける中で、古賀さんは周りのほとんどが「アメリカが原爆を落としたから戦争が終わり、多くの命が救われた」と考えていることを知り、モヤモヤが大きくなっていきました。
高校の先生 ショーン・マーフィーさん(左)
そのモヤモヤを問題意識へと変えたのは高校の先生、ショーン・マーフィーさんでした。ある日、ロゴ入りのパーカーを着ている古賀さんに「キノコ雲が何でできているか知っているかい?」と問いかけたのです。
答えにつまった古賀さんにマーフィー先生は、ロゴが長崎に落とされた原爆を表していること、その原爆のプルトニウムが町で作られたことを説明し「キノコ雲は犠牲になった市民や破壊された建物からできている」と話したと言います。
「その時、日本人なのにここに来て、ロゴについてあまり深く考えていない自分に悔しくなったり、ほとんどの生徒がキノコ雲という表面だけを知っていて、その下で実際に何が起こったかを知らない現実に悲しくなりました」(古賀さん)
「彼女はとてもショックを受け、泣き出してしまったんです。古賀さんはその日に、ロゴに対する自分の気持ちを言おうと決心したのだと思います」(マーフィー先生)
その日から古賀さんはロゴの入ったTシャツやパーカーの着用をやめました。
ホストマザーの協力
帰国の日が迫る中、古賀さんは、英文の原稿作りに取りかかりました。生徒達が校内向けに制作する動画に出演し、ロゴについての意見を言うことにしたのです。
原稿を作るに当たって、古賀さんは町に残る原子炉の見学ツアーにも足を運びました。町の歴史を学び、なぜ人々が誇りに感じているかを知るためです。
ホストマザーのサラ・ランドンさん(右)
この過程で協力してくれたのがホームステイ先のホストマザー、サラ・ランドンさんでした。ロゴマークを変えてほしいと訴えるのではなく、ほかの生徒たちが知らない事実を伝えることを意識して自分で文章を練り上げ、言葉や表現の添削はランドンさんが手伝ってくれました。
こうして5月30日、古賀さんは動画を通じて学校の生徒たちに語りかけました。その全文です。
あの日が曇りだったから
アメリカ留学、リッチランド高校での学校生活は楽しかったです。一生忘れないような友人や思い出もできました。いろいろな経験から成長でき、多くのことを学ぶことができたと思います。
みなさんの歴史や文化、視点について私は学んできたので、今回は私の(視点)を知ってほしいと思います。
私は長崎に近い、福岡の出身です。長崎は2発目の原爆が投下された場所です。わたしがこの高校に来られたのは皮肉な感じもします。
私の出身地は当初、原爆の標的でした。私の祖父母が焼け死んでしまっていたら、私はここにいなかったかも知れません。しかしその日、天気が曇りだったので標的は長崎に変わりました。
リッチランド高校ではキノコ雲のロゴは誰もに愛され、そこらじゅうにあります。私にとって、キノコ雲は犠牲になった人と今の平和を心に刻むものです。キノコ雲の下にいたのは兵士ではなく市民でした。罪のない人たちの命を奪うことを誇りに感じるべきでしょうか。
私の国では毎年“平和の日”があり、若い人たちは原爆によってもたらされた荒廃や恐怖について学びます。長崎では8万人もの市民、多くの子どもや女性が不正義なことに殺害されました。
私はみなさんのロゴマークを変えたいと思っているわけではありません。みなさんに個人的な見方について知ってほしいのです。
リッチランド高校ではキノコ雲は誇りの対象です。考えてみて下さい。爆発の後にできるキノコ雲は、爆弾が破壊したもので作られています。私は町の残骸や、戦争に参加していない罪のない子どもや女性、男性(からできたキノコ雲)に誇りを感じることはできません。
私がここにいるのは、あの日が曇りだったからなのです。
“動画はこの学校に必要だった”
動画が公開されたあと、友達からの反応は想像していたものと違いました。「すごい感動して泣いた」「あの動画はこの学校に必要だった」ー 古賀さんは、動画が公開される前の日はほとんど寝られなかったと打ち明けます。
「学校の生徒たちがロゴに誇りを持っているのに対して、私1人だけがすごい違う、全く違う意見を持っているなかで、その意見をみんなの前で言う。英語も パーフェクトに話せないのに本当に伝わるのかとか、どんなリアクションが返ってくるのか考えてしまい動画を公開する前の日は恐怖や緊張を感じていました。 この学校にきたということは、なにか意味があるのかなとか勝手に思って、やらなきゃと思ってやりました。あの動画がなければ日本側の意見は一生知ることが なかったと言われ、本当にやって良かったと思いました」(古賀さん)
古賀さんをサポートしたマーフィー先生と、ホストマザーのランドンさんも、行動をたたえています。
「古賀さんが勇気を持って自らの考えをこのような形で表現したことについて、とても誇りに思います。必ずしも聞きたいことばかりが報道されているわけでは ないように、学校の現場でも、様々な背景を持った人たちが意見を自由に言う機会を与えることが大切だと感じています」(マーフィー先生)
「キノコ雲のロゴについては、この町で日常的に議論されているわけではありませんが、ほとんどの人がこのロゴには違和感を持っていないのが現状です。古賀さんの動画を見た生徒たちが彼女の意見に真剣に耳を傾け、受け止めたことにとても励まされました」(ランドンさん)
古賀さんが声を上げたことは、地元のメディアなどが報じ、ツイッターでもキノコ雲のロゴの是非をめぐって議論が交わされました。1人の高校生が広げた静かな波紋。帰国直後の古賀さんは、屈託のない笑顔で振り返りました。
「留学に行ってよかったなと思うのは、温かい人たちに会えたこと。ホストマザーやホストファザー、マーフィー先生や友達をはじめすごく私をサポートしてくれて、一生の関係を築けたのかなと思います」(古賀さん)



2019年 8月 9日
「神戸市のアートプロジェクト2019プレイベントのシンポジウムに津田大介氏を呼ぶことは断固反対。主催は神戸市とTRANS-KOBE実行委員会。神 戸市外郭団体の神戸市民文化振興財団が運営事務局を務めてます(TEL078-515-6034)。明朝、常務理事と面談を約束。中止を要求します」
twitter.com/NorihiroUehata…

 ガソリン携行缶の脅迫であいちトリエンナーレの展示中止に追い込んだ名古屋、大阪市長と同じ偏狭な思想の持ち主が神戸市議会議員にもいた。その議員のね じ込みや100件ほどの抗議電話で混乱を恐れた神戸市と主催団体事務局はアート・プロジェクトKOBE2019 TRANSの18日の津田氏を招いていた シンポジウムを中止。なんとも情けない。
 この東灘区選出の上畠寛弘という31歳ほどの市議は、昨年5月神戸市外国人生活保護 約59億円について『こ○すぞ、議員も税金から給料貰ってるんやから、そんなしようもないことすんな』という脅迫が寄せらたとして外国人生活保護の廃止を 神戸市議会で発言。今年4月には神戸市が行う韓国の姉妹都市仁川と大邱への中高生の交流派遣事業に「断固反対」を唱え、ツイッターで「この時期に情勢不安 定な韓国に神戸市の子供達を派遣するとは如何なものか!日本の資産が不当な判決や遡及で財産が奪われる中、韓国に渡航して神戸市の子供達の安全は確約出来 るのか?断固反対です。神戸市役所へ皆様の声を届けて下さい。→神戸市こども青少年課078-322-5181」とご丁寧に電話番号を掲げて呼びかけてい る人物。
https://twitter.com/NorihiroUeha…/status/1116574706063163392
 自らのネトウヨと同じ偏狭な考えと他民族に対する偏見や差別・ヘイトそのものを売りにし、脅迫やSNSを使って匿名の抗議を動員して行政を圧迫して実現しようとするまことにお粗末な「政治屋」にすぎない。
 ちなみに、この国に在留する外国人も各種税金を納めており市民としての権利を持つのは当然のこと。また、あいちトリエンナーレの企画をKOBE2019  TRANSの参考にしたいと神戸から愛知の事務局に要請したところ芸術監督の津田氏自らが参加を許諾したという経緯があるという。それを一方的に中止す るのは失礼だろう。
 先ほど神戸市の担当にわたしからも「京アニの放火事件を利用した脅迫などに屈するという悪い前例をダイバーシティー、多様性を謳っている神戸市が継承するのは如何なものか。ぜひ再考を」と要請電話をしておいた。

《「表現の自由」を問う企画展が脅迫により中止された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(愛知県で開催中)の芸術監督・津田大介さんを招き、神 戸市内で18日に開催予定だったシンポジウムについて、同市の外郭団体など主催側は9日、中止すると発表した。津田さんの登壇に関し、市などに8日までに 抗議や問い合わせの電話が約100件寄せられていた。「現在の状況では本来の趣旨に沿って開催できないため」などとしている。ーーー



2019年 8月 8日
「少女像が日本人を貶めようとする韓国人の偏見の発露である、と考える人々にとって、二つの像を同じ彫刻家が制作したことの意味を理解することは困難かも しれない。国家の加害を問うことは「ヘイト」であり、名誉を傷つける行為だとする発想からすれば、韓国人がベトナムで行った加害行為を告発するなど想像も つかないだろう。だが二人の彫刻家にとって、二つの像の制作はまったく相反するものではない」
「ただ日本政府への抗議のメッセージだけを込めたのではない。地面を踏めず少し浮いたもう一つのかかとは、「彼女たちを放置した韓国政府の無責任さ、韓国 社会の偏見」を問うている。韓国政府・社会もまた彼女たちの傷を回復することを遅らせた責任がある、こうした考えからであろう」
「たしかに少女像は「慰安婦」問題をつくりだしたかつての日本軍と、問題に誠実に向き合わない今日の日本政府と社会を告発し、目をそらさぬようじっと凝視 している。多くの日本人たちに居心地の悪い思いをさせるであろう。だが国家の不正や加害行為を問うことは「ヘイト」ではない。少女の待つものは何か、その 意味を改めて日本社会は考えてみるべきではないか」

 あいちトリエンナーレで展示中止に追い込まれた少女像の制作の経緯と意図を丹念に解説する在日三世明治学院大学教授鄭栄桓氏の東京新聞寄稿文。
 広島、長崎を訪れる米国人がこの間増えているが、保存されている広島原爆ドームや資料館の展示品そして平和祈念像は米国と米国人に対するヘイトと受け取る人は少ない。
 両市の市長と被爆者ら市民は両市への訪問を世界の人々に呼びかけているが、それは米国へのヘイトを伝えるためではなく、またこの国があの戦争でただ被害者だったと喧伝するためでもない。
 それらはまさに「ノーモア広島・長崎」と、原爆により亡くなった多くの人々を悼み世界からの核兵器の廃絶を願ってのことである。そのためにはとくに原爆を投下した米国や核を保有する国々に核兵器の非人道性に真摯に向き合うことが求められる。
 同様に、このいたいけな少女像も戦時性暴力が二度とあってはならないというメッセージを伝えるものに他ならない。
「国家の不正や加害行為を問うことは「ヘイト」ではない」
 わたしたち市民そして何より政治を仮託されたものはこの言葉を噛みしめるべきだろう。

《二〇一七年四月二十六日、韓国・済州島で銅像「最後の子守歌」の除幕式が行われた。ベトナム戦争で犠牲となった子を抱く母を形象化した百五十センチほど のこの像は、その姿から「ベトナム・ピエタ」とも呼ばれる。韓国軍による民間人虐殺を謝罪し、被害者たちを慰める思いを込めてこの像を制作したのは、韓国 の彫刻家である金運成(キムウンソン)、金曙〓(キムソギョン、〓は日の下に火)夫妻。ふたりは、「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・ その後」に出品されながらも、日本への「ヘイト作品」などとの非難をうけ展示中止に追い込まれた「少女像」の制作者でもある。ーーー



2019年 8月 8日
「愛知県議会がこのまま知事として認めるのかなと思う。知事として不適格じゃないか」
「愛知県知事は今回の展示を知ってやったのだろう。公共たる愛知県が主催、知事が会長となり、公権力を行使して、展示した。一方的に反日政治活動を後押し」吉村洋文(大阪府知事)@hiroyoshimura

 知事として不適格なのはこの大阪府知事本人である。
 あいちトリエンナーレの企画展を一方的に「反日政治活動」などと決めつけ、「強制連行された慰安婦はいません。あの像は強制連行され、拉致監禁されて性 奴隷として扱われた慰安婦を象徴するもので、それは全くのデマ。中止は当然」https: //mainichi.jp/articles/20190805/k00/00m/040/182000c
などと言い放った大阪市長とともに自らの偏狭きわまる思考に基づいてテロ予告という脅迫=犯罪をなんら批判せず、それを利用しながら他県の行う芸術祭の企 画に干渉して潰す。その行為自体が犯罪の共犯と言ってよい。憲法も刑法も地方自治法も全く理解を欠落させている。こんな知事や市長がいることこそ大阪の恥 というもの。

《大阪府の吉村洋文知事は7日の定例記者会見で、企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会会長を務める愛知県の大村秀章知事について「辞職相当だと思う」と述べた。
 企画展をめぐっては、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などが展示されたことを日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長も批判している。吉村氏は、維新の常任役員を務めている。
 吉村氏は会見で、少女像などの展示について「反日プロパガンダ」だと指摘。「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」と述べ、公共イベン トでの展示は問題だとの認識を示した。また、大村氏が展示内容を容認したとして、「愛知県議会がこのまま知事として認めるのかなと思う。知事として不適格 じゃないか」と語った。》



2019年 8月 7日
「私たちの多くは、現在、日本で噴出する感情のうねりを前に、不安を抱いています。私たちが参加する展覧会への政治介入が、そして脅迫さえもが――それが たとえひとつの作品に対してであったとしても、ひとつのコーナーに対してであったとしても――行われることに深い憂慮を感じています。7月18日に起きた 京都アニメーション放火事件を想起させるようなガソリンを使ったテロまがいの予告や、脅迫と受け取れる多くの電話やメールが関係者に寄せられていた事実を 私たちは知っています。開催期間中、私たちの作品を鑑賞する人びとに危害が及ぶ可能性を、私たちは憂い、そのテロ予告と脅迫に強く抗議します」
「私たちが求めるのは暴力とは真逆の、時間のかかる読解と地道な理解への道筋です。個々の意見や立場の違いを尊重し、すべての人びとに開かれた議論と、そ の実現のための芸術祭です。私たちは、ここに、政治的圧力や脅迫から自由である芸術祭の回復と継続、安全が担保された上での自由闊達(かったつ)な議論の 場が開かれることを求めます。私たちは連帯し、共に考え、新たな答えを導き出すことを諦めません」

 死者35名、負傷者33名を出した京都アニメーション第一スタジオへのガソリン放火という重大犯罪を真似て、犠牲者や遺族の気持ちを再度深く傷つける卑 劣きわまりない脅迫と、それを批判せず自らが主張する展示中止のために利用する愚劣な名古屋市長、大阪市長、大阪府知事らの圧力によってあいちトリエン ナーレ2019芸術祭展示は閉鎖された。
 その展示閉鎖に抗議し、展示の継続を求める参加アーティストたちの真摯な言葉。わたしも署名した展示継続を求める署名は短期間に2万人を超え、韓国で も、6日ソウル中区に掲げられた千本の「NO JAPAN」旗はオンラインで集まった2万の反対署名などによってその日のうちに撤去された。
https://www.change.org/p/あいちトリエンナーレ-表現の不自由展-その後-の作品撤去-中止をしな…
https://www.afpbb.com/articles/-/3238782
 愚かな政治家たちによって引き起こされる民族・国家間の対立を超えた市民の交流と相互理解、様々な方法による創造的行為としての芸術がいまほど必要な時はない。短期間に集まった相互の2万人ほどの署名者の背後には多くの良識ある市民が存在する。そう信じたい。
 
「テロ予告と脅迫に強く抗議」
アーティスト・ステートメント
あいちトリエンナーレ2019 「表現の不自由展・その後」の展示セクションの閉鎖について
2019年8月6日
私たちは以下に署名する、あいちトリエンナーレ2019に世界各地から参加するアーティストたちです。ここに日本各地の美術館から撤去されるなどした作品を集めた『表現の不自由展・その後』の展示セクションの閉鎖についての考えを述べたいと思います。
津田大介芸術監督はあいちトリエンナーレ2019のコンセプトとして「情の時代」をテーマとして選びました。そこにはこのように書かれています。
「現在、世界は共通の悩みを抱えている。テロの頻発、国内労働者の雇用削減、治安や生活苦への不安。欧米では難民や移民への忌避感がかつてないほどに高ま り、2016年にはイギリスがEUからの離脱を決定。アメリカでは自国第一政策を前面に掲げるトランプ大統領が選出され、ここ日本でも近年は排外主義を隠 さない言説の勢いが増している。源泉にあるのは不安だ。先行きがわからないという不安。安全が脅かされ、危険に晒(さら)されるのではないのかという不 安。」(津田大介『情の時代』コンセプト)
私たちの多くは、現在、日本で噴出する感情のうねりを前に、不安を抱いています。私たちが参加する展覧会への政治介入が、そして脅迫さえもが――それがた とえひとつの作品に対してであったとしても、ひとつのコーナーに対してであったとしても――行われることに深い憂慮を感じています。7月18日に起きた京 都アニメーション放火事件を想起させるようなガソリンを使ったテロまがいの予告や、脅迫と受け取れる多くの電話やメールが関係者に寄せられていた事実を私 たちは知っています。開催期間中、私たちの作品を鑑賞する人びとに危害が及ぶ可能性を、私たちは憂い、そのテロ予告と脅迫に強く抗議します。
「安全確保の上、展示は継続されるべき」
私たちの作品を見守る関係者、そして観客の心身の安全が確保されることは絶対の条件になります。その上で『表現の不自由展・その後』の展示は継続されるべ きであったと考えます。人びとに開かれた、公共の場であるはずの展覧会の展示が閉鎖されてしまうことは、それらの作品を見る機会を人びとから奪い、活発な 議論を閉ざすことであり、作品を前に抱く怒りや悲しみの感情を含めて多様な受け取られ方が失われてしまうことです。一部の政治家による、展示や上映、公演 への暴力的な介入、そして緊急対応としての閉鎖へと追い込んでいくような脅迫と恫喝(どうかつ)に、私たちは強く反対し抗議します。
私たちは抑圧と分断ではなく、連帯のためにさまざまな手法を駆使し、地理的・政治的な信条の隔たりを越えて、自由に思考するための可能性に賭け、芸術実践 を行ってきました。私たちアーティストは、不透明な状況の中で工夫し、立体制作によって、テキストによって、絵画制作によって、パフォーマンスによって、 演奏によって、映像によって、メディア・テクノロジーによって、協働によって、サイコマジックによって、迂回(うかい)路を探すことによって、たとえ暫定 的であったとしても、それらさまざまな方法論によって、人間の抱く愛情や悲しみ、怒りや思いやり、時に殺意すらも想像力に転回させうる場所を芸術祭の中に 作ろうとしてきました。
「連帯し、新たな答えを導き出す」
私たちが求めるのは暴力とは真逆の、時間のかかる読解と地道な理解への道筋です。個々の意見や立場の違いを尊重し、すべての人びとに開かれた議論と、その 実現のための芸術祭です。私たちは、ここに、政治的圧力や脅迫から自由である芸術祭の回復と継続、安全が担保された上での自由闊達(かったつ)な議論の場 が開かれることを求めます。私たちは連帯し、共に考え、新たな答えを導き出すことを諦めません。

あいちトリエンナーレ2019 参加アーティスト 72名




2019年 8月 6日
「おかっぱの頭(づ)から流るる血しぶきに 妹抱(いだ)きて母は阿修羅(あしゅら)に」
「世界中の為政者には、核拡散防止条約第6条に定められている核軍縮の誠実交渉義務を果たすとともに、核兵器のない世界への一里塚となる核兵器禁止条約の 発効を求める市民社会の思いに応えていただきたい。こうした中、日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思い をしっかりと受け止めていただきたい」
 被曝から74年後の今日、当時5歳の女性が詠んだ歌を引用した広島市長の平和宣言から。
 イラン核合意から一方的に離脱、歴史的な米ソINF合意も破棄。韓国における徴用工への賠償を認めた判決には国際条約違反という悪罵を振りかざしなが ら、厳然とした国際条約である核拡散防止条約が課す核軍縮義務にあからさまに違反して核兵器近代化に勤しむ米国などに迎合して物が言えない「唯一の被爆 国」の首相が、核兵器禁止条約批准は拒否して「非核国と核保有国の橋渡し」などできるわけがない。人類を幾たびも滅ぼし得る核兵器も核合意すらも手のひら に乗せて弄ぶものが各国の政権の座を占める今こそ、この広島市長の提言に、被爆者の声に真摯に向き合うべきときだろう。

《今世界では自国第一主義が台頭し、国家間の排他的、対立的な動きが緊張関係を高め、核兵器廃絶への動きも停滞しています。このような世界情勢を、皆さん はどう受け止めますか。2度の世界大戦を経験した私たちの先輩が、決して戦争を起こさない理想の世界を目指し、国際的な協調体制の構築を誓ったことを、私 たちはいま一度思い出し、人類の存続に向け、理想の世界を目指す必要があるのではないでしょうか。
 特に、次代を担う戦争を知らない若い人にこのことを訴えたい。そして、そのためにも1945年8月6日を体験した被爆者の声を聴いてほしいのです。
 当時5歳だった女性は、こんな歌を詠んでいます。
 「おかっぱの頭(づ)から流るる血しぶきに 妹抱(いだ)きて母は阿修羅(あしゅら)に」
 また、「男女の区別さえできない人々が、衣類は焼けただれて裸同然。髪の毛も無く、目玉は飛び出て、唇も耳も引きちぎられたような人、顔面の皮膚も垂れ 下がり、全身、血まみれの人、人」という惨状を18歳で体験した男性は、「絶対にあのようなことを後世の人たちに体験させてはならない。私たちのこの苦痛 は、もう私たちだけでよい」と訴えています。
 生き延びたものの心身に深刻な傷を負い続ける被爆者のこうした訴えが皆さんに届いていますか。
 「一人の人間の力は小さく弱くても、一人一人が平和を望むことで、戦争を起こそうとする力を食い止めることができると信じています」という当時15歳だった女性の信条を単なる願いに終わらせてよいのでしょうか。
 世界に目を向けると、一人の力は小さくても、多くの人の力が結集すれば願いが実現するという事例がたくさんあります。インドの独立は、その事例の一つであり、独立に貢献したガンジーはつらく厳しい体験を経て、こんな言葉を残しています。
 「不寛容はそれ自体が暴力の一形態であり、真の民主的精神の成長を妨げるものです」
 現状に背を向けることなく、平和で持続可能な世界を実現していくためには、私たち一人一人が立場や主張の違いを互いに乗り越え、理想を目指し共に努力す るという「寛容」の心を持たなければなりません。そのためには、未来を担う若い人たちが、原爆や戦争を単なる過去の出来事と捉えず、また、被爆者や平和な 世界を目指す人たちの声や努力を自らのものとして、たゆむことなく前進していくことが重要となります。
 そして、世界中の為政者は、市民社会が目指す理想に向けて、共に前進しなければなりません。そのためにも被爆地を訪れ、被爆者の声を聴き、平和記念資料館、追悼平和祈念館で犠牲者や遺族一人一人の人生に向き合っていただきたい。
 また、かつて核競争が激化し緊張状態が高まった際に、米ソの両核大国の間で「理性」の発露と対話によって、核軍縮にかじを切った勇気ある先輩がいたということを思い起こしていただきたい。
 今、広島市は、約7800の平和首長会議の加盟都市と一緒に、広く市民社会に「ヒロシマの心」を共有してもらうことにより、核廃絶に向かう為政者の行動 を後押しする環境づくりに力を入れています。世界中の為政者には、核拡散防止条約第6条に定められている核軍縮の誠実交渉義務を果たすとともに、核兵器の ない世界への一里塚となる核兵器禁止条約の発効を求める市民社会の思いに応えていただきたい。
 こうした中、日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、 日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現にさらに一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい。また、平均年齢が82歳 を超えた被爆者をはじめ、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面でさまざまな苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するととも に、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。
 本日、被爆74周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者のみ霊に心から哀悼の誠をささげるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。
 令和元年(2019年)8月6日

 広島市長 松井一実(共同)》



2019年 8月 6日
「日本が数十万人を“強制連行”したというのは事実とは違うということ」
「愛知県や名古屋市が従軍慰安婦の存在を認めたとみられるような展示は差し迫った危険がある」

 この強制連行も軍慰安婦の存在すら認めないという河村名古屋市長の発言で最も無責任な点は、この自らが会長代行である「あいちトリエンナーレ」の企画展 『表現の不自由展・その後』のなかに自身が気に入らない少女像の展示があるとして中止要請を行い、さらに市に寄せられた「ガソリン携行缶を持って貴様のと ころに行くぞ」との脅迫文を理由にそれを後ろ盾として実現、正当化させていることだ。
 市長としてあるいは企画の会長代行としてまず行うべきは、この卑劣極まりない脅迫に対して県警などに訴えて厳正な捜査を要請することだろう。それをせ ず、こういう脅迫を利用して自らの気に入らない表現行為を抑圧するのはこの脅迫と同じ立場であることを表明する行為に他ならない。まさに卑劣極まりない。

 日本政府・軍部は敗戦時731部隊関連資料など自らの戦争指導責任に関わる大量の公文書を廃棄焼却した。これは今でも政権に不都合な公文書改ざんや隠蔽など、この国の財務省、防衛省など政府機関の体質に染み込んだままである。
 1993年の河野官房長官談話は
「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により 設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請 を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これ に加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。」
 と認め、
「政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」
とした。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html
 第一次以来安倍政権は「強制連行の裏づけとなるものはなかった」と繰り返しているが、河野談話で政府が認めた「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反 して」「官憲等が直接これに加担したこともあった」という募集や移送の方法は「強制連行はなかった」との主張とは大きな乖離がある。実際にはオランダ領イ ンドネシア、スマランにおけるオランダ人女性らの強制連行と戦時性暴力が戦後BC級戦犯法廷で裁かれた事件など多くの戦場で武力による威圧によって多くの 女性を日本軍が連れ回していたことは様々な調査研究が示している。
 かつてこの国の首相を務めた中曽根康弘はインドネシアのバリクパパンに派遣された海軍主計中尉としての回想で(『終りなき海軍』1978))
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやった」
と記し、のちにそれを追及されると「海軍の工員の休憩と娯楽の施設」だったと否定したが、2013年3月8日の衆議院予算委員会で辻元清美議員が示した「海軍航空基地第二設営班資料」(防衛研修所戦史室)という防衛省の所蔵資料において
「バリクパパンでは---心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる。主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」
とまぎれもない軍慰安所だったことが判明している。
http://www.shugiin.go.jp/…/itdb_…/html/shitsumon/a183081.htm
 主計中尉として「軍慰安所を作ってやった」ものが長く首相を務めたこの国で、「ガソリン携行缶を持って貴様のところに行くぞ」という脅迫を利用して軍慰安婦の存在を否定し、表現を封殺しようとする市長がでる。一体この国はどこへ向かうのか。
 
 
《「あいちトリエンナーレ」の企画展『表現の不自由展・その後』の中止を受けて、展示中止を要請した名古屋市の河村たかし市長が会見を開き「差し迫った危険がある」と述べた。ーーー



2019年 8月 5日
 乳頭田沢湖珍道中も今日が最後。テントを畳み宅配してレンタサイクルで湖畔を時計回りに巡る。
 暑さと脚力低下で緩い坂も難儀。それでも何度目かの潟分校跡の木造校舎は涼しく癒される。
 たつこ像を過ぎてひたすら漕ぎ結局ORAEで美味しい地ビールとランチ。湖畔からバスで再度水沢温泉に。湯は心地よいが、脱衣所もバス停も東北とは思えない暑さ。
 こまちで花火大会で賑わう仙台に戻り駅の寿司店で軽くアジなど食べるともう離陸1時間前。空港アクセス線に乗りダッシュで25分前にどうにかチェックインできた。

 



2019年 8月 4日
 早朝湖畔からバスで駒ケ岳8合目に向かう。バスは狭い道をジェットコースターのように上った。
 鶯の鳴き声と高山植物の花の匂いの山道を歩き阿弥陀池から男岳に着くと日頃の心がけと行いのせいか霧の中で眺望なし。
 来た道を引き返しバスでアルパこまくさに戻る。湯に入り蕎麦のお昼を食べ、ふたたびバスで乳頭温泉に行き、久しぶりに妙の湯に入った。土色の湯よりこの時期は銀の湯という単純泉が心地よい。
 湖畔に戻り一昨日と同じ大きな楢の木の前のORAEで夕景を見ながら食事。日が沈むと下弦の月が顔を出した。


2019年 8月 3日
 田沢湖畔明け方は曇り、やがて晴れた。湖面が風もなく鏡面のよう。バスでjr駅に出てローカル線で角館に。強い日差しで暑さは先日の福岡並み。迷わず角 館温泉に入り武家屋敷を歩くが、枝垂れ桜の頃はさぞ見応えがあるだろう。端のお店で稲庭うどんをいただき、帰路西宮家で水出しコーヒーを飲み貸し切り状態 のバスで田沢湖駅に戻った。
 駅からさらにバスで水沢温泉に行き露天に浸かり田沢湖畔に戻る。夕食は角館で買った鶏肉弁当。キャンプ場横の湖岸から夕陽が沈む様子を多くのキャンパーが眺めた。明日も晴れ予報。




2019年 8月 2日
 今朝も霧。テントを畳む際態勢が悪かったのか久しぶりに腰痛。荷を置いて休暇村まで25分さらにブナ林の中を20分歩き黒湯温泉。露天に浸かり食堂でブナの地ビールと蕎麦定食、どちらも美味。
 来た道を戻りキャンプ場でバスを一便遅らせベンチで横になる。背骨がばきかと矯正するような音がして30分ほどで起きると腰痛は激減した。途中アルパこまくさの湯に入り田沢湖畔のキャンプ場にテントを張り夕景の湖岸を歩くと暑さで滝のような汗でレストランORAEに。
 田沢湖に沈む夕日を見ながらピザとソーセージと地ビールが美味しいが、お客さんは少ない。日が暮れる頃キャンプ場に戻る。




2019年 8月 1日
 北東北は昨日梅雨明けとのことだがこちらは夜から雨で明け方は霧。キャンプ場から山道を歩き鶴の湯に行く。
 硫黄の露天は快適だがアブが襲来、時折の雨を傘で避けながらベンチで食べた秋田蕎麦も美味。
 裏手から新奥の細道と名付けられた蟹場温泉への山道に入るが、以前より随分荒れていた。80分ほどかかり蟹場温泉に着く。露天と木の内湯に浸かり大釜温泉と妙の湯の前を通りキャンプ場に戻る。どうにか明日からは晴れ予報。
 





                                                                                                                                                                
  
     





























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